諏訪WALK
下諏訪町の玄関口JR下諏訪駅

下諏訪町 目 次

下諏訪町は、醍醐天皇(10世紀初め)の頃に作られた和名抄によると、信濃国諏訪郡名の中に、「土武郷」という地名があり、これが現在の下諏訪町と考えられています。
鎌倉時代には、諏訪神社の大祝、金刺盛澄・手塚太郎光盛兄弟が木曽義仲や鎌倉幕府に仕えて活躍、また鎌倉五山建長寺の住職が慈雲寺を開山したり、御射山祭に全国の武将が集まるなど政治・文化的にも信濃の中心として発展しました。 戦国時代には武田信玄とのかかわりも深く、その当時の史跡、文化が現在でも偲ばれます。
江戸時代になると、再び諏訪氏の治めるところとなり、中山道、甲州道中が合流する交通の要衝で、中山道随一の温泉宿場町として賑わい、また全国に一万余の分社を持つ諏訪神社の総本社としても栄えました。明治7年に7村が合併し下諏訪村となり、明治9年に筑摩県が廃止されて長野県の所管に入り、明治26年6月30日に町制を布いて下諏訪町と改称しました。

 
なまこ壁の蔵道
諏訪大社秋宮近くには、独特の「なまこ壁」を持つ蔵々が立ち並ぶ、「蔵道」があります。少し細い路地ですが、江戸時代の風情を感じるお勧めのスポットです。
また、古きよき時代の街道「鎌倉街道」も下諏訪の地を通っていました。鎌倉街道跡は、街中から木々の中へと散策することができます。










下諏訪宿高札場

高札場は、江戸時代に幕府の法令や藩法などを墨書した『高札』を掲示した場所で、街道の追分、町辻、船渡場、関所など人目のつきやすい場所に設置されました。
下諏訪宿の高札場は、当初、問屋場にありましたが、場所が狭くなってきたことから、宝永年中(1704~1710)に、願いを出してこの場所に移されたことが記録に残されています。

 
高札場
主な高札は、『親子・博奕・忠孝』、『キリシタン』、『火付』、『毒薬』、『駄賃』等の幕府による庶民への基本的な法令を書した大高札と呼ばれる五枚を中心に、時代によって諸法の高札が掲げられました。
高札場の管理は大変厳重で、石垣や土盛りをしてみだりに近寄らせず、所在の町村役人の管理の下、付近の清掃、火災の際の高札持ち出し、狼藉者の取り締まりなどを行わせました。高札の文字は薄れると墨入れがされました。
高札は、法令への親近感や遵守を促し、警察力を補助するとともに、高札場の管理を厳重にすることなどで幕府の威厳を示す役割を果たしました。


万治の石仏

高さ2mほどの半球状の自然石に頭が載ったユニークな石仏です。言い伝えによると、諏訪・高島藩主が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納するため工事を依頼し、石工がこの地にあった巨石にノミを入れたところ、そこから血が流れ出しました。石工達は驚いて仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)。その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。
石工達は、この石に阿弥陀如来をまつったと伝えられています。胴には万治3年(1660)と刻まれており「万治の石仏」と名付けられました。画家の岡本太郎さんや作家の新田次郎さんが絶賛。最近はメディアにも取り上げられ、沢山の人が訪れています。

 
万治の石仏
石には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」また胸には幾つかの謎の文様が彫られている。向って右から太陽・雷・雲・磐座(いわくら)・月などで、これは大宇宙の全てを現し、右端には逆卍が刻まれている。これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅で、阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させた「同体異仏」を信仰する密教集団の弾誓上人を祖とする浄土宗の一派である。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。これは今までに例のない念仏思想で「仏頭授受」を伝えるものといわれている。
石仏は浄土宗の弥陀定印を結び、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟かまたは師弟のつながりを持っていて、その二人がこの石仏を造立したのではないかと推定されている。


明新館十王像

明新館には十王像が保存されています。
閻魔大王以下十王1体。
三途河婆1体。
獄卒(青鬼・赤鬼)1体。
浄玻璃鏡1台。
地蔵菩薩1体。
これらの石像には寛永十九年壬午(西紀1642年)九月二十一日の刻銘があり、完全に様式化した1セットを成している。かつてここが行屋であって、そこに祀られて庶民の信仰を集めていた。

 
十王像
死後に地獄と極楽があると云う考え方は浄土教思想の盛んになるにつれて民間にも強く広がった。庶民の間に強く根をおろしたのは特に戦国時代以降と云われる。
われわれはこの世の生を終ると三途の河を越して行く、そこには葬頭河婆と云うがいて、亡者の着て行った着物をはぎとる。はぎ取った着物はそばにいる懸衣爺がうけとって、そばの木に投げ掛ける。その時衣のかかった枝の高いか低いかで亡者の罪の重さの見当がつく。
三途の河の向うには閻魔庁があって閻魔大王を主として10人の裁判官がいる。
そこには浄玻璃の鏡と云うのがあって生前の善、悪業はことごとく映し出され十王の裁決で次の世に生まれる所が指定される。即ち地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上界の六道である。その当たりには赤鬼青鬼と云われる獄卒がいて亡者をこづきまわすと云う。亡者は初七日から三年忌に至るまで10人の大王によってそれぞれ裁きを受けて総合的に判決がきおまる。こうした場面にはお地蔵様がおいでになって、亡者たちのために少しでも罪を軽くしてやろうとして下さる。
これらの光景が1つのゼットになって場面を構成しているのが十王堂、あるいわ閻魔堂と呼ばれた処であり、これらの行屋と云われていた処でもこのお像を列べたところはたくさんあった。この十王像は行屋と云われていた処に並べられていた(今の明新館の前身である。)。行屋は公会所の意味も持っていたから人の出入りも多く、焚火も多かったと見えて、これらの石像は漆黒なまでに黒光りしている。此の十王像は定型化が目立っているが葬頭河婆だけは若干おもむきが違っている。


秋宮スケートリンク

明治42年、地元旅館業者・スケート関係者等によって開設された、自然を利用した人工スケート場です。諏訪湖は明治38年に鉄道が開通して以来、日本スケート界の一大中心地となり、全国各地から愛好者が集まりました。

 
秋宮スケートリンク
しかし、湖の結氷が12月下旬頃から2月上旬頃まで、また結氷状態の悪い時があるなどの不都合があったので、それを補うために作られた。水田を利用したもので、秋宮の森かげであり12月上旬から結氷し、アーク灯を設置して夜間の滑走も可能であった。料金は1日20銭、1シーズン1円であった。
このリンクは大正11年国際ルールにそった日本で最初のフィギュアスケートの競技会開かれた所です。
また、大正13年初のアイスホッケー公式試合が行われた所です。
現在も子供たちに親しまれているこのリンクは、日本スケート界の歴史と歩みをひとつにした伝統ある貴重な場所です。


鎌倉街道ロマンの道

下諏訪町にも鎌倉街道は通っていますが、鎌倉街道ロマンの道は、下諏訪町によって整備された散策コースで、鎌倉街道は関係がありません。今回は、諏訪大社下社秋宮からマップ上の青い線を歩いてみました。

 
鎌倉街道ロマンの道散策マップ
秋宮から甲州道中、中山道を歩いて共同浴場『遊泉ハウス児湯』の前まで歩きます。
『遊泉ハウス児湯』で右折すると、ここから上り坂が続きます。坂を上がりきる手前左に鎌倉街道への分岐があります。舗装された道を上ると、道は右に曲がっています(鎌倉街道)が、角の所から正面にみえる道祖神に向かって舗装のされていない道が伸びています。ここからは、道も狭く急坂になります。道祖神の前の道を上って行くと、桜城址に行く道が分かれています。
桜城址への分岐を左に行くと、秋葉神社、津島神社、蚕玉社などがあり、その先に一念石があります。
ここからは、大岩不動尊まで下り坂が続きます。途中、矢倉や景色を楽しみながら大岩不動尊、来迎寺を経由して諏訪大社下社秋宮まで戻りました。途中で桜城址にも立ち寄り、ゆっくり歩いて1時間半のコースです。

鎌倉街道 鎌倉街道ロマンの道にある道祖神 鎌倉街道ロマンの道 桜城址からの諏訪湖

一念石・・・諏訪大社大祝金刺盛澄は、鎌倉時代比類のない弓馬の達人であった。源頼朝からの出頭の命令に遅れたことで処刑されようとした時、梶原景時のとりなしで御前に流鏑馬の技を披露した。その技のあまりの見事さに頼朝の怒りは解け許されてこの地に戻った。流鏑馬に臨む盛澄はここの桜ヶ城に来ては独り座禅を組み精神統一、澄んだ心気でその場に臨んだという。その一念が盛澄の神技となったといえよう。その昔話からここに座禅石を置き碑を建て、この坂を一念坂と名づけた。

木曽義仲のやぐら(矢倉)・・・木曽義仲(幼名:駒王丸)は二歳の時、父義賢はその兄義朝との争いで義朝の子義平に殺された。義朝は後難を恐れ、駒王丸も殺すよう畠山重能に命じたが、重能はわずか二歳の幼児を殺すにしのびず武蔵の住人斉藤別当実盛に預けた。実盛は東国に置いては危ないと駒王丸の乳母の夫中原兼遠に託した。中原兼遠は中三権守とも呼ばれ、諏訪大社下社の神官でもあり木曽出身であった。母小枝とともに下社の地にかくまわれたというが、この地も危険と木曽へ移された。ここは下社大祝の山城桜ヶ城の中腹にあたる。その言い伝からここに矢倉(武器を納めておく蔵)を築いた。

児玉社・湯泉社・秋葉社・天白社 一念石 矢倉 来迎寺


ジジ穴、ババ穴古墳

水月公園付近には、天狛古墳群として数々の古墳があったが、多くは破却され、ジジ穴、ババ穴の2基だけが残っています。

 
ジジ穴古墳 ババ穴古墳


















殿村遺跡

北方の山城高木城主の居住地という伝承の小字地です。すぐ北には、鎌倉時代の古寺跡という『東照寺』、諏訪神社領と伝わる『八貫』、西には近世諏訪湖で漁撈中事故死した人々を並べ回向した『回向坂』など、歴史的な小字名が多く残る地域の中心地です。

 
殿村遺跡
この周辺の畑からは、古くから黒曜石の矢鏃・土器・須恵器・古陶器片などが多数出土しています。
以前発掘されたものと同様の縄文中期の居住址一つを発掘し、周辺の山野から調達した材料で、昭和29年家屋を復元しました。
この地より北側地域の大規模な発掘調査の結果、古い遺構群が見つかり、そこから集石墓群、カワラケ・陶磁器・石に経文を書いて(石経)信仰をあらわしたものなど多数出土、字名にのこる中世の寺『東照寺』の存在が実証された。このようにこの地域は、縄文時代・弥生時代・奈良・平安時代、中世の集落・寺院と墓跡など長期にわたる遺跡が発見されている貴重な複合遺跡であり、その遺物等出土品は、諏訪湖博物館で所蔵し展示されている。


伊勢宮社跡

承知川端の本郷せぎの取り入れ口のあった1835年5月、農業守護の伊勢神御鍬様を祀って『伊勢宮社』と言い、やがて津島様も合祀し以来厚い信仰を捧げてきました。

 
伊勢宮社跡
境内は94坪7号で、15坪の舞屋があり、明治初年富部学校(小学校)が設けられた。
明治39年、若宮神社に合祀された。その神殿は若宮境内にある蚕影山神社の社殿内に安置されています。













桜城跡

構築は鎌倉末期とされ、城主は下社大祝金刺氏です。金刺氏から武田氏統治の時代まで湖北地方の中心的役割を果たした桜城は、武田氏滅亡の後廃城となりました。

 
桜城主郭
桜城主郭周辺には堀切や二の郭を見る事が出来ます。
また、桜城は諏訪大社下社秋宮の背後にあり、下諏訪の温泉街からも望むことが出来ます。
主郭には展望台があり、下諏訪の街並みや諏訪湖を望むことが出来ます。











霞ヶ城(手塚城)跡

手塚別当金刺光盛の居城跡でした。城主光盛は、木曽義仲に従い、寿永2年(1183年)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な俱利伽羅峠の合戦に源氏方で参戦。

 
霞ヶ城跡からの風景
つづく加賀篠原の戦いでは、敗走する平家群の中にあって、ただ一騎ふみとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及んだ。この古式に則った見事な一騎打ちは、武士道の鑑とされ、能『実盛』の題材となっている。
激闘の末、光盛がその首を討ち取るが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人斉藤別当実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られる。
現在、城跡には、ホテル山王閣が建っています。





慈雲寺

鎌倉幕府に仕えた下社大祝の金刺満貞は、鎌倉五山の建長寺住職一山一寧を師と仰ぎ、郷里に招くと開山として、慈雲禅寺を建立した。広い庭園には一木一石といわれる禅寺の庭にふさわしく、樹齢400年の銘木「天桂松」がある。これは、武田信玄の時代に住職を務めていた天桂玄長禅師が植えたもので、信玄は天桂に深く帰依し、寺領を安堵するとともに、焼失していた伽藍の再興にも努めた。そのため本堂には武田菱が掲げられ、代々寺紋のように受け継いでいる。現在の建物は江戸時代後期に建てられたもので外観は質素ながら、本堂は規模が大きく、太い柱や内陣の彫刻に当時の臨済宗ならではの特色を示す。高島城を建城した日根野織部正高吉の大五輪塔もある。

慈雲寺参道 慈雲寺本堂 慈雲寺本堂 日根野高吉供養塔


御作田神社

御作田神社は、諏訪大社の末社の一つで、春宮と秋宮のほぼ中間に位置しています。神社の境内には斉田があり、毎年六月三十日には御作田祭(御田植神事)が行われており、この日に植えられた苗は1ヶ月後の八月一日には、諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ御作田の早稲として下社七不思議の一つとされています。
なお同日六月三十日には、諏訪大社春宮横の浮き島社において、夏越しの安穏を祈る茅の輪くぐりが行われます。
御作田神社の外堀の石垣からは清水と温泉が出ていますが、向かって左が温泉、右が清水で、清水は花見新道の崖下より湧出しています。

御作田神社 本殿 斉田 清水と温泉


高木津島神社

高木津島神社は、津島神社(本社:愛知県津島市)の分社です。津島神社は、わが国の神素盞鳴尊とインド伝来の牛頭天王とが習合した神を祭神とし、十二世紀末、疫病除け神社として建設。以後、織田氏・豊臣氏・尾張松平家の庇護のもと、天王信仰の中心社となり、多くの御師が、各地で疫病除けの布教活動をし、分社をひろめた。

高木津島神社 高木津島神社

















 
神楽殿(舞屋)
神楽殿(舞屋)は、天保4年(1833年)、村人が紅梁を御射山より出材、村の大工棟梁幸蔵・大工与右衛門・利右衛門によって造営。神楽殿であったが、村芝居舞台としてもよく使われ、花道、舞台幕なども残されている。また、村寄合、若者寄合の場としても用いられ、5人組毎にたたきわらで編んだ敷物を1枚ずつ出した、石製煙草盆を使ったなどの記録が残っています。









大岩不動尊

大岩不動尊は、山岳宗教の霊場として知られ、湯沢渓谷の両岩にひしめく石造群はここにこめられた祈りの膨大さを思わせます。
明治17年に二達山信仰の行者によって開かれたものであり、一般の信仰も広いようです。また、このお不動様は眼病に効くという言い伝えが今でも残っているようです。

大岩不動尊 大岩不動尊


















真清神社

真清神社にもうでれば美人になり芸達者にもなるといい、花柳界の人たちの参拝が多かった。下諏訪に遊郭があった頃、真清楼の先代が中心になって有志で講をつくり、お稲荷さんを祭って建てたのが始まりのようです。
下諏訪に遊郭が設けられたのは明治13年頃で、大正時代には芸妓が120~130人、置屋も30軒を数えるなど、花柳界華やかな時代もあったのですが、遊郭が廃止になって、商売繁盛という初期の目的を失った稲荷神社に、同じく居場所がなくなった夫婦石が持ち込まれたようです。

真清神社 夫婦石


















伏見屋邸

生糸商、呉服太物、洋物、飲料・煙草・畳表などの商売や質屋を営む中村商店の屋号が伏見屋で、伏見屋邸と呼んでいます。中村家は武田信玄の諏訪統治の際、諏訪に移り住んだようです。

 
伏見屋邸
建物は、屋内に庭を設けた江戸時代の民家の作りです。
2013年に国の有形文化財の建造物として登録されています。
中山道歩きや下諏訪町散策の休憩所として無料で開放されていて、ボランティアの方が、建物の説明や周辺の見所も紹介してくれます。










下諏訪町の社寺

来迎寺
浄土宗知恩院を本山とする引接山聖聚院来迎寺は、金刺氏の分家といわれる諏訪左衛門慰を開基に、天文10年(1541)、願誉栄海上人によって中興開山された。和泉式部にゆかりがあり、北条時頼が運んできたと伝えられる和泉式部守り本尊の銕焼地蔵尊を安置するほか境内には供養とも建つ。また、寺の境内に庚申塔があるのも珍しい。
いいなり地蔵
誰の願いも言うなりに叶えてくれるので言成地蔵尊。元禄年間諏訪神社の神宮寺の境内に安置され善男善女の信仰厚く毎日お参りする人が絶えなかった。明治元年神仏分離令が公布され神宮寺が廃寺になり、言成地蔵尊は萩倉の薬師堂に信者により安置されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者も驚き、話し合った結果、地蔵様のお心を思い元の位置(現在地)に戻し安置する。当時は諏訪の平を一望する眺望地であった。
浮島社
清め祓いの神を祀り六月三十日の大祓式、夏越の祓いはここで行ないます。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えら れます。
若宮神社
本社諏訪明神の大祝家は、屋敷神として若宮神社を祀っている。古い時代に大祝家以下五官方が、ここ富部の地に住まわれており、ここに鎮座されたと伝えられています。


青塚古墳

この古墳は、明神山山麓から西に突き出た丘陵の先端部に位置し、付近に古墳は認められず単独墳の様相を呈している。
現在の墳形は、長い年月の間に旧状を変じており、見方によっては二基の円墳が近接し合っているようにも見えるが、主軸長67m、後円部径33.4m、前方部幅42.8mの前方後円墳である。

 
青塚古墳
石室は、後円部西側のくびれ部寄りに開口した横穴式石室で、安山岩の自然石を用いた乱石積となっており、全長は7.4mである。なお、内部は未調査のため不明な部分が残されている。
本古墳は、墳丘の形態・石室・出土した埴輪の特色から、六世紀後半から末に築造されたものと推定されている諏訪地方唯一の前方後円墳であり、後円部に比して前方部が長いという天竜川流域の特色を有した貴重な古墳である。







八島ヶ原湿原

霧ヶ峰の高層湿原は、本州の最南限に当り、車山湿原、踊場湿原、八島ヶ原湿原は国の天然記念物に指定されています。八島ヶ原湿原は、霧ヶ峰の北西部に位置する標高1,632mの高層湿原です。

八島ヶ原湿原
八島ヶ原湿原は、上空から見るとハート形の形状をしています。
八島ヶ原湿原は、泥炭層が発達しており、8.05mにもなり、1万2000年前に誕生した高層湿原です。













力石

力石は昔から村の集会所の庭に置かれ、昭和の初期頃まで若者達の力くらべに使われたものである。

力石
三つの内一つには「道改記念・下原」と刻んであるが、何時頃のものか年代はわからない。重いものは60kg位あり、民俗的にも貴重なものである。
また、富部公民館には65kgある力石があります。












梶原塚

寿永2年(283)の夏下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と共に木曾義仲を助け平家追討中、下社御射山神事のため帰国した。義仲は平家を追い落し京に入り、威権をほしいままにした為、頼朝は兵を派遣し義仲を攻め、義仲、光盛は粟津において討伐された。義仲に最後まで従った盛澄は頼朝の関東参向の命をためらいその怒りにふれ捕えられ頼朝の重臣梶原景時に断罪の為預けられていた。文治3年(287)8月鶴岡八幡宮放生会の折かねてより盛澄の流鏑馬の妙技を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した。

梶原塚
盛澄は癖馬をあてがわれたたが景時の秘かなる助言で乗りこなし、すべての的をみごとに射落とし再三に及ぶ難技もみな射切った。これを見た頼朝は『これぞ神技の故なり』と感嘆し金刺盛澄と部下60余名は許されて帰国することが出来た。
正治2年(1200)1月梶原景時の死後盛澄は、その人徳を尊び恩義に報いる為諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て五、三の桐の太刀を納めた。この南西百米先にあったが鉄道開通の折移転され以後菅野町により毎年九月に例祭が行われている。





魁塚

鳥羽伏見の戦いで勝利を収めた官軍の倒幕先鋒隊「赤報隊」は年貢半減を旗印に征伐軍を進めていた。明治政府は一時の人気取りで年貢半減を唱えたものの現実不可能を悟ると、赤報隊に偽官軍の汚名を着せ断罪した。軍議の名目で下諏訪宿本陣に招集された隊長の相楽総三らは捕らえられ、残りの幹部も順次捕縛、友之町で処刑された。

魁塚
相楽総三と赤報隊こそ維新の魁であったのに、と同情した地元の人々は、塚を築いて墓碑とした。魁町の地名はこの塚に由来する。のちに、総三の孫木村亀太郎の努力により、昭和になって冤罪が認められた。地元相楽会では今も毎年命日の4月3日に遺族を招いての供養会を開いている。











下諏訪倉庫(旧繭倉庫群跡)

下諏訪倉庫株式会社は、明治初年に諏訪地方に勃興した機械製糸業の発展と金融機関の安全を目的として、第十九国立銀行、佐久銀行、三井合名会社の三金融機関により、この地に明治三十三年(1900)に設立されました。

 
下諏訪倉庫株式会社
製糸業の原料繭を保管する営業倉庫業(発券許可倉庫)として、繭の貯蔵に適した多窓式多階建土蔵造りの倉庫が建設されました。明治・大正の最盛期には、この場所に六棟と、国道沿いに三棟の合計九棟の倉庫群がありましたが時代の変遷と共に徐々に姿を消しました。
平成十六年には、製糸業の発展を支えた貴重な建造物として近代産業遺産の認定を受けましたが老朽化が著しく、平成十八年八月に100有余年を経た最後の四棟の倉庫群が、惜しまれつつ姿を消しました。





風景

つるし雛 萩倉 御柱祭 御柱祭里曳き

御柱祭里曳き 御柱祭里曳き 御柱祭 サマーイルミネーション

水月公園 水月公園


下諏訪町の美術館・博物物館

諏訪湖オルゴール博物館・奏鳴館
下諏訪町では世界のオルゴールのほとんどが生産されました。地元の日本電産サンキョー(旧三協精機製作所)の協力によって、スイスやドイツといったヨーロッパ、アメリカの貴重なアンティーク・オルゴールの約120点が展示されています。
ガイドによる古典オルゴールの生演奏が好評です。また、400曲以上の中からオリジナルのオルゴールを手作りできる体験工房もあります(予約が必要です)。
開館時間:9:00~17:30(12月~2月末 17:00まで)
休館日:2月の第1水・木曜日
入館料:¥800(小中学生¥400)、諏訪湖時の科学館・儀象堂との共通券は¥1,200です。
住所:諏訪郡下諏訪町5805
☎:0266-26-7300
諏訪湖時の科学館・儀象堂
中国北宋時代(1092年)に作られた水の力で正確な時を刻む機械式天文観測時計・水運儀象台が目玉の一つです。同台は世界で初めて完全復元に成功しました。館内には「東洋のスイス」と呼ばれた諏訪地方で生産された、貴重な時計コレクション400点を展示してあります。また、クオーツ、機械など技術や料金、時間によっていろいろなコースを選べる時計つくり体験も可能です(予約が必要です)。
下諏訪町埋蔵文化財センター
国史跡星ヶ塔遺跡から出土した黒曜石を中心に町内出土の埋蔵文化財を展示していて、旧石器時代から中世までの町の歴史が紹介されています。
開館時間:9:00~17:00(12月~2月末 9:30~16:30)
休館日:12月~2月の木曜日
入館料:¥800(小中学生¥400)諏訪湖時の科学館儀象堂と下諏訪町埋蔵文化財センターの入館料は共通です。
諏訪湖オルゴール博物館・奏鳴館との共通券は¥1,200です。
住所:諏訪郡下諏訪町3289
☎:0266-27-0001
ハーモ美術館
諏訪湖畔のサンセット・ポイントで、富士山の眺望が素晴らしいロケーションに建てられています。アンリ・ルソー、グランマ・モーゼス、アンリ・マティスなどパントルナイーフ(素朴派)の名画が楽しめる美術館。
ジョルジュ・ルオーの全版画コレクションも所蔵しています。常時展示替えを行っているほか、特別展も随時開催しています。
開館時間:9:00~18:00(10月~3月 9:00~17:00)
休館日:無休(展示替え等により休館日となる場合、または展示室の一部がご覧いただけない場合がございます。
入館料:¥800(小中高校生¥400 土曜日は無料)
住所:諏訪郡下諏訪町10616-540
☎:0266-28-3636
諏訪湖博物館・赤彦記念館
武田信玄ゆかりの「諏訪法性の兜」のほか、郷土の歴史資料を多数展示してあります。特に信州のシンボルである諏訪湖に関する展示が多く、諏訪湖の成り立ちや大きさの変遷、生態系、模型を使って諏訪湖に伝わる漁法を紹介。
さらに諏訪湖は日本スケート発祥であるため、下駄から現在までのスケート変遷史を展示してあります。併設の赤彦記念館は、アララギ歌人の島木赤彦の足跡を紹介し、赤彦の業績や作品を鑑賞することができます。特別展や企画展も随時行われています。
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌火曜日)、祝休日の翌日、12月28日~1月4日
入館料:¥350(小中学生¥170)
住所:下諏訪郡下諏訪町西高木10616-111
☎:0266-27-1627
柿蔭山房
明治、大正を代表するアララギ歌人・島木赤彦が暮らした居宅です。赤彦は諏訪に生まれ、長野師範を卒業後、長野県内で教師を務めました。伊藤左千夫の死後に上京し短歌誌「アララギ」の編集に携わりました。
左千夫、斎藤茂吉、中村憲吉らと交流する一方で、多くの後進を育てました。赤彦は「柿の村人」などの名も使っており、居宅を「柿蔭山房」と命名したようです。庭には樹齢200年を超える老松や様々が植物が植えられています。近くに赤彦の墓所もあります。
住所:下諏訪郡下諏訪町北高木9180
☎:0266-27-1627
今井邦子文学館
井邦子は女流短歌誌「明日香」の創始者です。四国に生まれた邦子は、2歳で下諏訪町の祖父母の家に引き取られました。少女時代から文学に目覚めました。結婚、出産を経てアララギ歌人の島木赤彦と出会い、短歌の新境地を開いたとされます。
後にアララギを離れ、女流短歌誌「明日香」を創刊し、昭和を代表する女流歌人となりました。文学館は下諏訪宿の茶屋・松屋の建物を復元したもので、明日香や邦子に関する資料を展示しています。
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌火曜日)、祝休日の翌日、12月28日~1月4日
入館料:¥220(小中学生¥100)
住所:下諏訪郡下諏訪町湯田町3364
☎:0266-28-9229
歴史民俗資料館
中山道沿いに立つ歴史民俗資料館は、江戸時代の宿場民家の特色を残しています。表に「縦繁格子」をはめ、「みせ」と呼ばれる大戸の横にある広い板の間、「通り庭」という建物内部にあって裏庭に通じる土間を見ることができます。
館内には下諏訪宿を中心にした街道、温泉、問屋場などのほか、町や旅人の様子を描いた絵画、生活様式など歴史民俗資料が展示されています。
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌火曜日)、祝休日の翌日、12月28日~1月4日
入館料:¥220(小中学生¥100)
住所:下諏訪郡下諏訪町立町3530-1
☎:0266-27-8827
根津八紘美術館
建物は、下諏訪倉庫社長、三井章義さんが所有されていた大正ロマン風の林檎館(平成4年築)をお引き受けし改修。根津八紘氏が、医師業のかたわら制作した書画が展示されています。
美術館を通じ得られた収入の一部は社会福祉施設のお役に立たせて頂いて参りました。
開館時間:10:30~18:00
休館日:火曜日
入館料:無料
住所:下諏訪郡下諏訪町立町3528-8
☎:0266-78-6270
おんばしら館よいさ
館内には長持ちや騎馬行列などで実際に使用されていた道具が展示されています。また、御柱祭の木落しが体験できます。
御柱の映像を流すシアターやジオラマも展示されています。
開館時間:9:00~17:00
休館日:火曜日
入館料:\300
住所:下諏訪郡下諏訪町168-1
☎:0266-26-0413
注意 ・上記以外にも花屋茂七館、古文書館・民芸館、駅と祭りの資料館、懐古物語、風雅舎など「まちかど博物館」があります。
・施設の見学には予約が必要な場合もあります。


下諏訪町の湧水

下諏訪町には湧水が数ヶ所ありますが、飲料に適していないものもありますので、注意して下さい。


 
龍の口
竜頭水口は旧横川村(現在の岡谷市)の山田金右ェ門の作として見事であり、江戸時代中期のものです。竜の口から出る水は、慈雲寺へ参拝される人々のためにつくられ、また江戸時代この中山道を往来した旅人の喉を潤おしたものと思われます。
この長い石段を登ると名刹の慈雲寺があり、梵鐘(県指定文化財)、天桂の松(町指定文化財)など、貴重な文化財があります。









御作田神社 金命水 徳孝泉(明治天皇御膳水) 弁天水

熊野神社 若宮神社 水月公園



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