諏訪WALK | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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下諏訪町の玄関口JR下諏訪駅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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下諏訪町 | 目 次 |
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下諏訪町は、醍醐天皇(10世紀初め)の頃に作られた和名抄によると、信濃国諏訪郡名の中に、「土武郷」という地名があり、これが現在の下諏訪町と考えられています。 鎌倉時代には、諏訪神社の大祝、金刺盛澄・手塚太郎光盛兄弟が木曽義仲や鎌倉幕府に仕えて活躍、また鎌倉五山建長寺の住職が慈雲寺を開山したり、御射山祭に全国の武将が集まるなど政治・文化的にも信濃の中心として発展しました。 戦国時代には武田信玄とのかかわりも深く、その当時の史跡、文化が現在でも偲ばれます。 江戸時代になると、再び諏訪氏の治めるところとなり、中山道、甲州道中が合流する交通の要衝で、中山道随一の温泉宿場町として賑わい、また全国に一万余の分社を持つ諏訪神社の総本社としても栄えました。明治7年に7村が合併し下諏訪村となり、明治9年に筑摩県が廃止されて長野県の所管に入り、明治26年6月30日に町制を布いて下諏訪町と改称しました。
また、古きよき時代の街道「鎌倉街道」も下諏訪の地を通っていました。鎌倉街道跡は、街中から木々の中へと散策することができます。
高札場は、江戸時代に幕府の法令や藩法などを墨書した『高札』を掲示した場所で、街道の追分、町辻、船渡場、関所など人目のつきやすい場所に設置されました。 下諏訪宿の高札場は、当初、問屋場にありましたが、場所が狭くなってきたことから、宝永年中(1704~1710)に、願いを出してこの場所に移されたことが記録に残されています。
高札場の管理は大変厳重で、石垣や土盛りをしてみだりに近寄らせず、所在の町村役人の管理の下、付近の清掃、火災の際の高札持ち出し、狼藉者の取り締まりなどを行わせました。高札の文字は薄れると墨入れがされました。 高札は、法令への親近感や遵守を促し、警察力を補助するとともに、高札場の管理を厳重にすることなどで幕府の威厳を示す役割を果たしました。
甲州街道の終点であり、中山道との交差点近くに本陣があります。問屋として交通運輸の一切をとりしきり、問屋場を運営して、宿場の責任を負っていた。 問屋は幕府の下にあり、宿場内の最高責任者でした。
中山道随一の名庭と称される築庭式石庭園で、周囲の山や諏訪大社秋宮の森を借景にしています。池の水は、近くを流れる承知川より引水されています。 季節により表情を変える庭園を楽しむことが出来ます。
高さ2mほどの半球状の自然石に頭が載ったユニークな石仏です。言い伝えによると、諏訪・高島藩主が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納するため工事を依頼し、石工がこの地にあった巨石にノミを入れたところ、そこから血が流れ出しました。石工達は驚いて仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)。その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。 石工達は、この石に阿弥陀如来をまつったと伝えられています。胴には万治3年(1660)と刻まれており「万治の石仏」と名付けられました。画家の岡本太郎さんや作家の新田次郎さんが絶賛。最近はメディアにも取り上げられ、沢山の人が訪れています。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。これは今までに例のない念仏思想で「仏頭授受」を伝えるものといわれている。 石仏は浄土宗の弥陀定印を結び、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟かまたは師弟のつながりを持っていて、その二人がこの石仏を造立したのではないかと推定されている。
諏訪大社下社の例大祭は8月1日で、2月に行われる冬の遷座祭(御霊代をお移しする神事)で秋宮から春宮にお移しされた御霊代を春宮から秋宮にお移しする夏の遷座祭が行われます。
このお舟に翁と媼の2体の人形が乗せられ、御頭郷(奉仕する当番の地区)の氏子によってお舟が曳かれ、秋宮を目指します。 これをお舟祭りと呼び、明治の中頃までは、ふんどし姿の裸の若者がお舟を曳いていたことから、別名裸祭りと呼ばれていました。 上社と下社の夫婦の神様が、諏訪湖を舟で巡っていたからだと言う話も伝わっています。 1,000人近い氏子に曳かれ、ゆっくりと春宮から秋宮に向かったお舟は、鳥居をくぐり神楽殿に着くと、神楽殿を3周してお舟の曳行が終了します。
2月に行われる諏訪大社下社の遷座祭(御霊代をお移しする神事)で春宮から秋宮にお移しされた御霊代を秋宮から春宮にお移します。
秋宮と春宮は、約1km離れているのですが、矢木東を経由して春宮に向かいます。御霊代と共に200名ほどの行列が春の宮に向かうのですが、8月に行われる遷座祭(お舟祭り)と比べると厳かに行われています。
明新館には十王像が保存されています。 閻魔大王以下十王1体。 三途河婆1体。 獄卒(青鬼・赤鬼)1体。 浄玻璃鏡1台。 地蔵菩薩1体。 これらの石像には寛永十九年壬午(西紀1642年)九月二十一日の刻銘があり、完全に様式化した1セットを成している。かつてここが行屋であって、そこに祀られて庶民の信仰を集めていた。
われわれはこの世の生を終ると三途の河を越して行く、そこには葬頭河婆と云うがいて、亡者の着て行った着物をはぎとる。はぎ取った着物はそばにいる懸衣爺がうけとって、そばの木に投げ掛ける。その時衣のかかった枝の高いか低いかで亡者の罪の重さの見当がつく。 三途の河の向うには閻魔庁があって閻魔大王を主として10人の裁判官がいる。 そこには浄玻璃の鏡と云うのがあって生前の善、悪業はことごとく映し出され十王の裁決で次の世に生まれる所が指定される。即ち地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上界の六道である。その当たりには赤鬼青鬼と云われる獄卒がいて亡者をこづきまわすと云う。亡者は初七日から三年忌に至るまで10人の大王によってそれぞれ裁きを受けて総合的に判決がきおまる。こうした場面にはお地蔵様がおいでになって、亡者たちのために少しでも罪を軽くしてやろうとして下さる。 これらの光景が1つのゼットになって場面を構成しているのが十王堂、あるいわ閻魔堂と呼ばれた処であり、これらの行屋と云われていた処でもこのお像を列べたところはたくさんあった。この十王像は行屋と云われていた処に並べられていた(今の明新館の前身である。)。行屋は公会所の意味も持っていたから人の出入りも多く、焚火も多かったと見えて、これらの石像は漆黒なまでに黒光りしている。此の十王像は定型化が目立っているが葬頭河婆だけは若干おもむきが違っている。
明治42年、地元旅館業者・スケート関係者等によって開設された、自然を利用した人工スケート場です。諏訪湖は明治38年に鉄道が開通して以来、日本スケート界の一大中心地となり、全国各地から愛好者が集まりました。
このリンクは大正11年国際ルールにそった日本で最初のフィギュアスケートの競技会開かれた所です。 また、大正13年初のアイスホッケー公式試合が行われた所です。 現在も子供たちに親しまれているこのリンクは、日本スケート界の歴史と歩みをひとつにした伝統ある貴重な場所です。
下諏訪町にも鎌倉街道は通っていますが、鎌倉街道ロマンの道は、下諏訪町によって整備された散策コースで、鎌倉街道は関係がありません。今回は、諏訪大社下社秋宮からマップ上の青い線を歩いてみました。
『遊泉ハウス児湯』で右折すると、ここから上り坂が続きます。坂を上がりきる手前左に鎌倉街道への分岐があります。舗装された道を上ると、道は右に曲がっています(鎌倉街道)が、角の所から正面にみえる道祖神に向かって舗装のされていない道が伸びています。ここからは、道も狭く急坂になります。道祖神の前の道を上って行くと、桜城址に行く道が分かれています。 桜城址への分岐を左に行くと、秋葉神社、津島神社、蚕玉社などがあり、その先に一念石があります。 ここからは、大岩不動尊まで下り坂が続きます。途中、矢倉や景色を楽しみながら大岩不動尊、来迎寺を経由して諏訪大社下社秋宮まで戻りました。途中で桜城址にも立ち寄り、ゆっくり歩いて1時間半のコースです。
一念石・・・諏訪大社大祝金刺盛澄は、鎌倉時代比類のない弓馬の達人であった。源頼朝からの出頭の命令に遅れたことで処刑されようとした時、梶原景時のとりなしで御前に流鏑馬の技を披露した。その技のあまりの見事さに頼朝の怒りは解け許されてこの地に戻った。流鏑馬に臨む盛澄はここの桜ヶ城に来ては独り座禅を組み精神統一、澄んだ心気でその場に臨んだという。その一念が盛澄の神技となったといえよう。その昔話からここに座禅石を置き碑を建て、この坂を一念坂と名づけた。 木曽義仲のやぐら(矢倉)・・・木曽義仲(幼名:駒王丸)は二歳の時、父義賢はその兄義朝との争いで義朝の子義平に殺された。義朝は後難を恐れ、駒王丸も殺すよう畠山重能に命じたが、重能はわずか二歳の幼児を殺すにしのびず武蔵の住人斉藤別当実盛に預けた。実盛は東国に置いては危ないと駒王丸の乳母の夫中原兼遠に託した。中原兼遠は中三権守とも呼ばれ、諏訪大社下社の神官でもあり木曽出身であった。母小枝とともに下社の地にかくまわれたというが、この地も危険と木曽へ移された。ここは下社大祝の山城桜ヶ城の中腹にあたる。その言い伝からここに矢倉(武器を納めておく蔵)を築いた。
水月公園付近には、天狛古墳群として数々の古墳があったが、多くは破却され、ジジ穴、ババ穴の2基だけが残っています。
北方の山城高木城主の居住地という伝承の小字地です。すぐ北には、鎌倉時代の古寺跡という『東照寺』、諏訪神社領と伝わる『八貫』、西には近世諏訪湖で漁撈中事故死した人々を並べ回向した『回向坂』など、歴史的な小字名が多く残る地域の中心地です。
以前発掘されたものと同様の縄文中期の居住址一つを発掘し、周辺の山野から調達した材料で、昭和29年家屋を復元しました。 この地より北側地域の大規模な発掘調査の結果、古い遺構群が見つかり、そこから集石墓群、カワラケ・陶磁器・石に経文を書いて(石経)信仰をあらわしたものなど多数出土、字名にのこる中世の寺『東照寺』の存在が実証された。このようにこの地域は、縄文時代・弥生時代・奈良・平安時代、中世の集落・寺院と墓跡など長期にわたる遺跡が発見されている貴重な複合遺跡であり、その遺物等出土品は、諏訪湖博物館で所蔵し展示されている。
承知川端の本郷せぎの取り入れ口のあった1835年5月、農業守護の伊勢神御鍬様を祀って『伊勢宮社』と言い、やがて津島様も合祀し以来厚い信仰を捧げてきました。
明治39年、若宮神社に合祀された。その神殿は若宮境内にある蚕影山神社の社殿内に安置されています。
構築は鎌倉末期とされ、城主は下社大祝金刺氏です。金刺氏から武田氏統治の時代まで湖北地方の中心的役割を果たした桜城は、武田氏滅亡の後廃城となりました。
また、桜城は諏訪大社下社秋宮の背後にあり、下諏訪の温泉街からも望むことが出来ます。 主郭には展望台があり、下諏訪の街並みや諏訪湖を望むことが出来ます。
手塚別当金刺光盛の居城跡でした。城主光盛は、木曽義仲に従い、寿永2年(1183年)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な俱利伽羅峠の合戦に源氏方で参戦。
激闘の末、光盛がその首を討ち取るが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人斉藤別当実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られる。 現在、城跡には、ホテル山王閣が建っています。
鎌倉幕府に仕えた下社大祝の金刺満貞は、鎌倉五山の建長寺住職一山一寧を師と仰ぎ、郷里に招くと開山として、慈雲禅寺を建立した。広い庭園には一木一石といわれる禅寺の庭にふさわしく、樹齢400年の銘木「天桂松」がある。これは、武田信玄の時代に住職を務めていた天桂玄長禅師が植えたもので、信玄は天桂に深く帰依し、寺領を安堵するとともに、焼失していた伽藍の再興にも努めた。そのため本堂には武田菱が掲げられ、代々寺紋のように受け継いでいる。現在の建物は江戸時代後期に建てられたもので外観は質素ながら、本堂は規模が大きく、太い柱や内陣の彫刻に当時の臨済宗ならではの特色を示す。高島城を建城した日根野織部正高吉の大五輪塔もある。
御作田神社は、諏訪大社の末社の一つで、春宮と秋宮のほぼ中間に位置しています。神社の境内には斉田があり、毎年六月三十日には御作田祭(御田植神事)が行われており、この日に植えられた苗は1ヶ月後の八月一日には、諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ御作田の早稲として下社七不思議の一つとされています。 なお同日六月三十日には、諏訪大社春宮横の浮き島社において、夏越しの安穏を祈る茅の輪くぐりが行われます。 御作田神社の外堀の石垣からは清水と温泉が出ていますが、向かって左が温泉、右が清水で、清水は花見新道の崖下より湧出しています。
高木津島神社は、津島神社(本社:愛知県津島市)の分社です。津島神社は、わが国の神素盞鳴尊とインド伝来の牛頭天王とが習合した神を祭神とし、十二世紀末、疫病除け神社として建設。以後、織田氏・豊臣氏・尾張松平家の庇護のもと、天王信仰の中心社となり、多くの御師が、各地で疫病除けの布教活動をし、分社をひろめた。
大岩不動尊は、山岳宗教の霊場として知られ、湯沢渓谷の両岩にひしめく石造群はここにこめられた祈りの膨大さを思わせます。 明治17年に二達山信仰の行者によって開かれたものであり、一般の信仰も広いようです。また、このお不動様は眼病に効くという言い伝えが今でも残っているようです。
真清神社にもうでれば美人になり芸達者にもなるといい、花柳界の人たちの参拝が多かった。下諏訪に遊郭があった頃、真清楼の先代が中心になって有志で講をつくり、お稲荷さんを祭って建てたのが始まりのようです。 下諏訪に遊郭が設けられたのは明治13年頃で、大正時代には芸妓が120~130人、置屋も30軒を数えるなど、花柳界華やかな時代もあったのですが、遊郭が廃止になって、商売繁盛という初期の目的を失った稲荷神社に、同じく居場所がなくなった夫婦石が持ち込まれたようです。
生糸商、呉服太物、洋物、飲料・煙草・畳表などの商売や質屋を営む中村商店の屋号が伏見屋で、伏見屋邸と呼んでいます。中村家は武田信玄の諏訪統治の際、諏訪に移り住んだようです。
2013年に国の有形文化財の建造物として登録されています。 中山道歩きや下諏訪町散策の休憩所として無料で開放されていて、ボランティアの方が、建物の説明や周辺の見所も紹介してくれます。
この古墳は、明神山山麓から西に突き出た丘陵の先端部に位置し、付近に古墳は認められず単独墳の様相を呈している。 現在の墳形は、長い年月の間に旧状を変じており、見方によっては二基の円墳が近接し合っているようにも見えるが、主軸長67m、後円部径33.4m、前方部幅42.8mの前方後円墳である。
本古墳は、墳丘の形態・石室・出土した埴輪の特色から、六世紀後半から末に築造されたものと推定されている諏訪地方唯一の前方後円墳であり、後円部に比して前方部が長いという天竜川流域の特色を有した貴重な古墳である。
霧ヶ峰の高層湿原は、本州の最南限に当り、車山湿原、踊場湿原、八島ヶ原湿原は国の天然記念物に指定されています。八島ヶ原湿原は、霧ヶ峰の北西部に位置する標高1,632mの高層湿原です。
八島ヶ原湿原は、泥炭層が発達しており、8.05mにもなり、1万2000年前に誕生した高層湿原です。
力石は昔から村の集会所の庭に置かれ、昭和の初期頃まで若者達の力くらべに使われたものである。
また、富部公民館には65kgある力石があります。
寿永2年(283)の夏下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と共に木曾義仲を助け平家追討中、下社御射山神事のため帰国した。義仲は平家を追い落し京に入り、威権をほしいままにした為、頼朝は兵を派遣し義仲を攻め、義仲、光盛は粟津において討伐された。義仲に最後まで従った盛澄は頼朝の関東参向の命をためらいその怒りにふれ捕えられ頼朝の重臣梶原景時に断罪の為預けられていた。文治3年(287)8月鶴岡八幡宮放生会の折かねてより盛澄の流鏑馬の妙技を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した。
正治2年(1200)1月梶原景時の死後盛澄は、その人徳を尊び恩義に報いる為諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て五、三の桐の太刀を納めた。この南西百米先にあったが鉄道開通の折移転され以後菅野町により毎年九月に例祭が行われている。
鳥羽伏見の戦いで勝利を収めた官軍の倒幕先鋒隊「赤報隊」は年貢半減を旗印に征伐軍を進めていた。明治政府は一時の人気取りで年貢半減を唱えたものの現実不可能を悟ると、赤報隊に偽官軍の汚名を着せ断罪した。軍議の名目で下諏訪宿本陣に招集された隊長の相楽総三らは捕らえられ、残りの幹部も順次捕縛、友之町で処刑された。
下諏訪倉庫株式会社は、明治初年に諏訪地方に勃興した機械製糸業の発展と金融機関の安全を目的として、第十九国立銀行、佐久銀行、三井合名会社の三金融機関により、この地に明治三十三年(1900)に設立されました。
平成十六年には、製糸業の発展を支えた貴重な建造物として近代産業遺産の認定を受けましたが老朽化が著しく、平成十八年八月に100有余年を経た最後の四棟の倉庫群が、惜しまれつつ姿を消しました。
下諏訪町には湧水が数ヶ所ありますが、飲料に適していないものもありますので、注意して下さい。
この長い石段を登ると名刹の慈雲寺があり、梵鐘(県指定文化財)、天桂の松(町指定文化財)など、貴重な文化財があります。
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