諏訪WALK
冬の中山道

中山道 目 次

畿内と東の内陸部(近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、出羽、陸奥)に伸びる東山道を基本として、中仙道が整備されました。
江戸時代に五街道の1つとして整備され、中仙道と呼ばれていたが、1716年に幕府の通達により中山道となっています。
東海道の53宿、126里余に対し、中山道は守山宿までの67宿ですが、京都までの69宿132里10町と言われる事もあり、距離も長く、山道や峠道が多かったので、人馬の往来が困難でした。
山中を往来する中山道を昔の人は15日前後で歩いたそうです。


 
秋の下諏訪宿
将軍家に献上する宇治茶を運ぶ為のお茶壺道中や、和宮の将軍家お輿入れなど姫宮方の通行には中山道が利用されていたようです。
中山道は「姫街道」と別名がつくほどでした。
中山道には幾つかの険しい山道がありましたが、東海道のように長期にわたる川止めがないことが利点でありました。
中山道は下諏訪町から岡谷市に入ると(岡谷市長地柴宮3丁目付近)、初期中山道と分岐します。
初期中山道とは、塩尻を通らない(下諏訪~小野峠~小野宿~牛首峠~桜沢)旧街道です。




文久元年(1861)4月1日、下諏訪宿に和宮ご降嫁の知らせが届くと、道や橋の調査、人足や馬の調達など受け入れの準備に追われました。
下諏訪宿まわりの107村だけでは足りず、甲州の173村を加え人足17,285人、馬830頭が集められました。
11月3日に行列の先頭が到着、5日午後5時頃に和宮が到着されました。翌朝7時頃ご出発されました。行列の荷物などを運び終わったのが11月8日で、京都方と江戸方を合わせて総勢約3万人という、大行列であったとのことです。
  中山道を通りご降嫁した姫宮
年代 姫宮 婚家相手
寛文4年(1664) 鷹司 信子 5代 綱吉
不明 近衛 熙子 6代 家宣
明暦3年(1657) 浅宮 顕子 4代 家綱
宝永3年(1706) 寛徳院 理子 8代 吉宗
享保16年(1731) 伏見宮 比宮 9代 家重
寛延2年(1749) 閑院宮 五十宮 10代 家治
文化元年(1804) 有栖川 楽宮 家慶(家斉嫡子)
天保2年(1831) 有栖川 登美宮 水戸
鷹司 有君 13代 家定
嘉永2年(1849) 一条 寿明君 13代 家定
文久元年(1861) 孝明天皇妹和宮 14代 家茂


和田峠~下諏訪宿

和田峠を通る公共の交通機関はありません。夏季のみバスが運行されているようですが、本数が少ないのでタクシーを利用するのが便利でしょう。
中山道は江戸を出て28番目の宿場町和田宿(小県郡長和町)を出ると高低差750mほど登り、和田峠に着きます。ここから諏訪湖を目指し高低差800mほど下ると下諏訪宿です。和田宿から下諏訪宿までの距離は、21.6kmです。和田峠は、五街道の最高地点(標高1600m)です。この和田峠からが下諏訪町になります。

和田峠付近の中山道 西餅屋茶屋跡
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた立場(人馬が休息する所)であった。
中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。
ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲がり)と茶屋跡が残っている。
西餅屋茶屋付近の中山道 浪人塚
元治元年(1864)十一月二十日水戸浪士の一行千余人勤王の志をとげようと和田峠を越えてきた、それを高島、松本両藩が防いだ激戦地あとで塚には討死した浪士を葬り櫻を植え墓碑が建てられている。

樋橋茶屋本陣跡碑
和田峠の登り口にあって立場の役割を果たしていました。
下諏訪・和田両宿間、五里十八町(約22km)の峠路に立場茶屋としてつくられたひとつが樋橋で茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に何軒かの茶屋が出来た。本陣には御殿とよぶ小建築があって、文久元年十一月六日には和宮様のお小休みがあった。元治元年十一月には和田嶺合戦の戦場になるなど交通の要地なるがゆえの事件はたくさんあった。
御柱木落し坂
諏訪大社の御柱祭は、七年目毎申・寅年に行います。規模の大きさ、勇壮・豪快なことは比類がなく、天下の大祭として知られています。
樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から引き出す「山出し祭」が御柱祭の四月、町内を曳行し建立する「里引き祭」を五月に行います。
曳行途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場「木落し」です。
男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を100m余り・傾斜度45度近い崖のようなこの木落し坂頂上から一気に引き落とします。落下の反動で、若者たちの大半は放り出され御柱とともに転がり落ちる、一帯を埋めつくす大観衆は一瞬息をのみ、驚声と大喚声が沸き上がり、その豪壮さは筆舌に尽くせません。
「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」と唄われてきました。この木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱八本を三日にわたって行います。
木落し坂付近の中山道 諏訪大社下社春宮
全国にある諏訪神社の総本社。上下四社の内下社二社の一社。祭神は、その昔は女神八坂刀売神でしたが、現在は建御名方神との二柱。幣拝殿・左右片拝殿は大隅流の建築で国重要文化財です。
境内の筒粥殿で行われる「筒粥神事」は下社七不思議の1つです。
裏手には浮島、万治の石仏があり、浮島も下社七不思議の1つです。

諏訪大社下社春宮付近の道標碑
「右中山道 左諏方宮」嘉永七年。下社大祝今井信古の書。
慈雲寺龍の口
慈雲寺の参道口。
高遠系石工山田氏の龍の石彫の手水があります。
慈雲寺
慈雲寺は創建以来三回大火に遭っているが、文化三年(1806)の大災後の文化五年(1808)本堂、玄関、庫裏を再建した。棟梁は上諏訪湯の脇の上原市蔵正房で、初代立川和四郎富棟の直弟子として下社秋宮幣拝殿をはじめ富棟の造営した多くの寺社建築に加わっている。本堂は入母屋造りで周囲に板縁を回し、内陣には臨済宗特色の通し須弥壇が付けられ、室中と両脇間との境の中間には柱を立てず、内陣の欄間には梶の葉と武田菱の彫刻が付けられている。規模の大きさと全体に木太い建築である点が特色で、外観は質素であるが、内陣の彫刻に大工の特徴が現れ、江戸時代後期の臨済宗本堂の特色を示した建築である。
矢除石
武田信玄は、慈雲寺中興の祖と言わる天桂和尚を師とも仰いでおり、戦場へ赴く時に慈雲寺に立ち寄り天桂和尚に戦勝の教えを請いました。
上人は、境内の大きな石の上に立って「私を弓で射てみよ」と至近の距離から射かけさせたところ矢はすべて岩ではねかえされて上人には一本の矢もあたりません。不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」とのことでした。
信玄は、この念力がこもった矢除札を受け勇躍戦場に向かったという言い伝えのある石です。

一里塚碑
江戸より五十五里
一里塚付近の中山道
伏見屋邸
元治元年築。
明治時代の商家の復元がされ、無料のお休み処です。
御作田神社
御作田神社は、諏訪大社の末社の一つで、春宮と秋宮のほぼ中間に位置しています。神社の境内には斉田があり、毎年六月三十日には御作田祭(御田植神事)が行われており、この日に植えられた苗は1ヶ月後の八月一日には、諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ御作田の早稲として下社七不思議の一つとされています。
なお同日六月三十日には、諏訪大社春宮横の浮き島社において、夏越しの安穏を祈る茅の輪くぐりが行われます。
御作田神社の外堀の石垣からは清水と温泉が出ていますが、向かって左が温泉、右が清水で、清水は花見新道の崖下より湧出しています。


下諏訪宿

下諏訪宿は、江戸から数えて29番目の宿場町で、中山道で唯一の温泉宿場町でした。
また、江戸から続く甲州街道の終点でもあり、45軒の旅籠があったそうです。
お諏訪様のお膝元、温泉に入れる、塩尻峠・和田峠に挟まれる地などの条件から大変賑わった宿場でした。

中山道下諏訪宿番屋跡碑 今井邦子文学館
江戸時代に茶屋「松屋」だった所で、歌人今井邦子の実家。
湯田坂
幕府は宿場を新設するとき必ず曲の手(かぎのて)を新設した。宿場の中を窺い知られない為の防御施設である。宿の入り口をわざと曲げた。
宿場には大名や公用の役人が宿泊する御本陣を設置したから、止泊人の安全を確保する為に宿外から奥が見えないようにし、侵害されたときも防御しやすいような関門を作ったのである。
湯田坂の急坂は曲の手の役割をしていました。
本陣岩波家
御本陣は、二度代わった。初めは小口弥右衛門、小口氏が欠所になって岩波氏が後を継ぎ、幕末まで御本陣職を勤めている。
幕末の激動期を震感させた数々の事件の舞台になった上段の間が今も残され、当時を偲ぶことができる。皇女和宮様の止泊、赤報隊の本部になるなど歴史の表舞台を彷彿させてくれる。

まるや旅館
幕末に脇本陣を勤めた旅館。
往来する大名方の宿泊が混雑したときに泊まった旅篭であるが、通用門が上段の間などは御本陣と全く変わらない間取りである。
下諏訪の脇御本陣は三度代わった。初めは絵物屋、次が今井新兵衛、最後が丸屋である。
中山道と甲州街道の合流点碑
旧中山道→江戸五十五里七丁
旧甲州道中→江戸五十三里十一丁
下諏訪宿 高札場跡
おんばしらグランドパークに高札場跡がありましたが、現在はおんばしらグランドパークが取り壊され更地になっています。


下諏訪宿~塩尻峠

下諏訪宿をでると、旧御小休本陣(今井家)までは、なだらかな道が続きます。
旧御小休本陣(今井家)を過ぎると塩尻峠までの登りが始まります。
塩尻峠を通る公共の交通機関はありませんが、峠近くの御野立口(塩尻峠より約1km塩尻側)までの地域振興バスが、JR塩尻駅前から1日4本出ています。

一宮石燈篭
春宮の参道入り口ともいえる所にあり、諏訪湖からもよく見えたといいます。
道祖神 西大路口付近の中山道 道標
右 中仙道
左 いなミち

旧渡辺家住宅
渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町でなく在郷の村々に住んだ藩士)の家でした。安政年中(1854~)の「家中分限帳」によると、郡方下役外様御徒士18俵2人扶持であったことがわかります。
住宅の規模は、間口7間半(約13.5m)奥行5間(約9m)で、外観は茅葺・寄棟造で内部には土間と炉の間があり、居間に中床があります。
この住宅の創築年代については、記録や墨書などは残されていないが、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつけた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度などから18世紀中ごろに建てられたと考えられます。その後、天保12年(1841)から嘉永年間(1848~1854)にかけてのころ改築工事をして現状のような間取りになりました。現存する武士の家が全国的に数が少なくなった現在、この渡辺家はたいへん貴重なものです。
この家から三人の大臣が出ており、渡辺千秋(1843~1921)宮内大臣と、国武(1846~1919)大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、千冬(1876~1940、千秋の三男で国武の養嗣子)は司法大臣になりました。
平福寺
弥林山平福寺といい、高野山金剛頂寺の末寺で、中世南北朝時代から戦国時代には下社春宮の別当寺でした。
同寺にある日限地蔵尊は、願いをかなえてくださる「おひぎりさま」で知られています。
東堀一里塚跡
江戸より五十六里
道祖神

中山道 今井番所跡
江戸時代、中山道塩尻峠口に置かれた米を中心とすろ穀類の出入りを監視した番所。現存する建物は江戸時代末期のものです。
旧御小休本陣(今井家)
旧今井村は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古来交通上の要衝で、江戸時代には、ここに御小休本陣が設けられ今にその旧観を残している。
中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として江戸時代には、幕府の要人尾張徳川家をはじめ参勤交替の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
文久元年十一月五日、皇女和宮が徳川将軍家に御降嫁の時、明治十三年六月二十四日、明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡幸の時御小休になられた。
平成十一年七月十六日、江戸時代の姿をほぼ継承している点が貴重であるとして、主屋等十一件が国の登録有形文化財に指定された。
道標
右 しもすは
左 しほじり峠

石舟観音堂
馬頭観世音が、船の形をした台石の上に祀られていることからこの名がある。足の病に御利益があると言われ、草履等が奉納されている。
鳴沢清水
石舟観音堂の奥に水神が祀られていて、参道脇で飲むことが出来ます。
大石 塩尻峠からの風景


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