諏訪WALK
冬の甲州道中からの諏訪湖

甲州道中 目 次

甲州道中は、日本橋から下諏訪を結ぶ五十三里十一町の街道で五街道のひとつに数えられます。初めは甲州海道といいましたが、海辺を通る道ではないからと、正徳六年(1716)甲州道中と改称されました。甲州道中は徳川幕府が、豊臣恩顧の外様大名らが江戸へ攻めてきた時の逃げ道として作られました。


 
甲州道中と並行して走る中央東線
参勤交代でこの街道を通った大名は、信州の高島、高遠、飯田の三藩と甲斐の諸藩にすぎず、公用の通行といえば、江戸城へのお茶壺道中、江戸幕府と甲府勤番、代官所との連絡が主でした。中山道などに比べれば通行者は少なかったのですが、多くの旅人が行き交う道でした。











下諏訪宿~上諏訪宿

甲州道中は、中山道の分岐地点から曲の手を通り、諏訪大社秋宮の前を上諏訪方面に国道20号やJRと並行して進んで行きます。上諏訪宿までは、緩やかな下り道が続きます。
ゆっくり歩いて1時間10分ぐらいです。

中山道と甲州道中の分岐点
旧中山道→江戸五十五里七丁
旧甲州道中→江戸五十三里十一丁
曲の手
幕府は宿場を新設するとき必ず曲の手(かぎのて)を新設した。宿場の中を窺い知られない為の防御施設である。宿の入り口をわざと曲げた。
宿場には大名や公用の役人が宿泊する御本陣を設置したから、止泊人の安全を確保する為に宿外から奥が見えないようにし、侵害されたときも防御しやすいような関門を作ったのである。
道が曲がっている所に下諏訪宿甲州道中番屋跡碑があります。
諏訪大社下社秋宮
全国にある諏訪神社の総本社。上下四社の内下社二社の一社。幣拝殿・左右片拝殿・神楽殿は立川流の建築で国重要文化財です。
承知川橋石
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯
伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦の砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したという。しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。
爾来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚石の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われてきた。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。

一里塚跡
江戸から53番目の一里塚で、甲州道中最終のものです。あと十一町で賑やかな下諏訪宿に着き、中山道につながります。
石投場
諏訪湖を眼下にした展望に優れた場所。昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられました。明治十三年、明治天皇ご巡幸の折には、ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったといいます。地元高木地区では、その記念に「明治天皇駐輦址」と刻まれた大きな碑を建てました。
柿蔭山房(島木赤彦住居)
赤彦は明治三十年久保田家の養嗣子となり、大正十五年三月二十七日死去迄この家を根拠に生活したが、大正七年東京のアララギ発行所から帰郷以来ここで起居、自ら「柿蔭山房」と命名した。間口八間半、奥行五間半、士族の家作りとしても評価が高い。
書斎は西向き八畳の上座敷であったが、冬は寒く夏は暑かったので大正十四年東南の一部に日当たりのよい書斎を新築した。
庭の赤松は樹齢三百年余、目通周二米又門口の胡桃は樹齢百三十年余、共に赤彦の特に愛惜した老木である。
なお津島社前に歌碑、裏山の中腹に赤彦と夫人不二子の墓がある。
津島神社参道
参道の途中左手に柿蔭山房(島木赤彦住居)があります。

道祖神 甲州道中
政屋(橋本屋)
上諏訪宿と下諏訪宿の間に残る中の茶屋。江戸時代の面影がそのまま残っています。門は高島城の門を移築した物か、あるいは写しと言われ、医薬門という格式ある形式。旅人の安全を祈願し、門の上には南無阿弥陀仏の札と一緒に円鏡が揚げられています。
甲州道中からの風景

常夜燈 先宮神社
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一説にみえる。
諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より州羽(諏訪)の地に遷御された以前より、すでに原住民の産土神であった。しかし「建御名方命」が諏訪神社に鎮座した当時、国ゆずりの為抵抗したが遂に服従し、現在の社地に鎮座することになった。
この事により他地に出る事は許されず、今でも境内前の小川には橋を架けないとの言い伝えがある。
神社の資料など乏しいが、文献では大和地籍には数ヶ所の遺跡があり、嘉禎三年(1237)以前に集落が形成され、漁撈・狩猟・農業・養蚕等農耕の「神」を祭り、共同体として生活し、寄り所として神社を築き、農作祈願や感謝をし、天災地変・無病息災・外敵の消除等を祈ったりした。
神社名については、古くは「新海宮社」・「鷺宮」・「鵲宮」と言う名称があって、旧高島藩の「検地水帳」で元禄九年(1696)に、「鷺宮」が「先宮」と表記されている。
また鎌倉幕府の嘉歴四年(1329)の「不知状」に「鷺宮」の造営を下桑原(現在の上諏訪)の役と定めている事から、この頃には神社としての形態が整っていたものと思われる。
なお拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」があり、年代を物語っており、また境内には数社の無格社が鎮座している。
兒玉石神社
七石(硯石・沓石・蛙石・小袋石・亀石・兒玉石・御座石)の一つである兒玉石があります。
一里塚跡
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。
各街道とも江戸日本橋より三十六町(一里、約4km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ、エノキなどを植えて一里塚とした。
ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃といわれている。この塚は江戸から五十二里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。


上諏訪宿

上諏訪宿は五街道の一つ、甲州道中の宿駅でしたが、城下町だったために大名などが泊まる本陣や脇本陣などはありませんでした。通運会社や駅のような仕事をした問屋だけがおかれていました。

吉田の松
種名 クロマツ
推定樹齢 270~300年
高島藩士吉田式部左衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。
代々吉田家の庭園に育てらたものを昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、諏訪市内の最年長樹である。
角間十王堂跡
初代高島藩主諏訪頼水には、亀姫という末娘があり家臣小沢家に嫁いだ。ある日、この亀姫が書状を下男に持たせ城に参上させたところ、途中平素仲の悪い隣の下男がこの書状を奪い取り衣ノ渡川に捨て後難を恐れて永明寺駆け込み命乞いをした。頼水は寺僧にその下男を渡すよう命じたが、これに応じなかったので寺を焼き払い、そのものの首を刎ね槍の穂先に貫き、この場所に捨てて帰城した。
町の人たちは怨霊の祟りを恐れ、その首級を埋め十王信仰に基づき亡者の裁きをする十王像を祀り堂宇を建てて供養したと伝えられる。その後堂宇が老朽化したので明和元年(1764)、角間が生んだ名工初代立川和四郎富棟が江戸修行より帰郷後の初仕事としてこの十王堂を建て替え、角間の守護霊として祭祀供養を続けた。
享和三年(1803)三月二日、高国寺裏手より出火した火災(天狗火事)によって堂宇は焼けその後間もなく多くの信徒の力で再建され、明治維新まで庶民の信仰の場としてにぎわった。維新政府の達しにより神仏が分離され排仏毀釈となり堂宇は廃寺、十王像は唐沢山阿弥陀寺の観月堂に移され、内陣は岩屋堂として移築された。
なお、十王堂(念仏講)の遺品は、角間町に移され町の文化財として保存されている。
上諏訪宿 上諏訪宿


上諏訪宿~茅野駅前

上諏訪宿の次の宿場町は金沢宿です。その途中にJR茅野駅があります。上諏訪宿からは緩やかに上っています。途中、秋葉神社、足長神社、葛井神社などに立ち寄って約3時間です。

手洗水
秋葉神社境内の清水で、国道端に設けられた手洗水で一般の人に供水した。
殿様御膳水
天保頃のものと思われる清水町関係の覚え書に「文化年中諏訪稲葉守(因幡守)様御在城の節は御膳水御用立候事に依て」云々の記載、また天保十二年(1830)の文書「御膳水保護のため秋葉山持畑御永引願上」などがある。
秋葉神社
清水町秋葉神社境内の清水は清水町の町名の起源と考えられ、およそ三百年前からその名が記録に見られる。
道祖神

道祖神 足長神社参道
足長神社は桑原城跡の山腹に鎮座しています。
足長神社
祭神は足摩乳神で、諏訪上社の末社の一つとして、また、上桑原郷の産土神として古くから崇敬されてきました。
社記によれば、当社は初め足長・手長の両神を合祭し(手長の神はのちに下桑郷(現上諏訪)に分祭)、荻をもって社宇の屋上を葺いたことがら「荻の宮」とも呼ばれたといいます。
社記の由緒の項には、大同年間、諏訪神社大祝有員(上社大祝の始祖)が当社を崇敬し、広大な社殿を建築して自らも近接地に居住したため、その地を御曾儀平(みそぎだいら)と呼ぴ、有員の廟墓もあると記されています。
口頭伝承によれば、足長神は手長神を背負って諏訪湖で貝や魚をとったといい、また大きな長いわらじを奉納すれば足長神が旅の安全を守ってくれるといい、かつて人々は当社にわらじを奉納して旅の安全を祈りました。
なお、江戸時代、地元の上桑原村では、諏訪上社の御柱祭に「高島藩家老騎馬行列」を奉納していたが、明治4年の廃藩後は足長神社に奉納するようになり、今日に至っています。
足長神社からの風景

道標
右 大明神江
左 江戸みち
甲州道中 常夜燈 一里塚跡
江戸時代の初めに、幕府は「五街道」の改修を行って一里塚の制を敷き、江戸日本橋を起点として三十六町(一里、約4km)ごと道の両側に塚を築いて、エノキかケヤキの木を植えさせた。
ここ神戸には日本橋から五十一里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
塚上のエノキは大人の五倍(8~9m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。

頼重院
天文十一年(1542)七月、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原城に破れ、甲府において自害した。
墓は東光寺(甲府市)にあるが、この地に菩提寺として頼重院が建立され、境内には宝塔を立てて中に宝篋印塔を納めその霊を供養した。
宝篋印塔は総高95cmで、基礎・塔身・笠・相輪の各部分の大きさ調和がとれていて美しく、関西形式と関東形式が混在したこの地方特有の作りである。宝塔は、石造りの覆塔ともいうべきもので、方形の平面の塔身に四注状の笠を乗せ、露盤に請花、宝珠をおく。
境内にはこのほかにも古い墓碑が多く見られる。
火燈公園
神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。
この鳥居火は、「太古からの仕来り」で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化十五年(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は天正六年(1578)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、貫の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が「太古からの仕来り」を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。
甲州道中 大門追分道標
右 江戸道
左 山浦道

道標 土橋祝殿大欅之跡 道祖神 金剛寺跡
鎌倉五山になぞらえて上原五山(極楽寺、光明寺、永明寺、金剛寺、法明寺)と称されるなかの一寺であり、天正十六年(1588)の「諏訪上下社寺領案文」には、極楽寺、永明寺と並び金剛寺の名が記載されており、既にこの時期には建立されている。
開山、開基、創建の時期について具体的に知る資料は見当たらないものの、古記録等から判断し室町時代後半から安土桃山時代にかけて創建されたものと推定される。寺の位置については、昭和七年編集の「永明村史跡踏査要項」には「金剛寺跡は、大町上側鍛冶小路の東側にあり」と記述され、ちの町史・上原城下町図にも金剛寺跡が示されており、当石碑から約50m東側奥地籍に建立されていたものと推測される。

葛井神社参道 葛井神社
葛井神社は久頭井、楠井、久須井、槻井等とも書かれ、祭神は槻井泉神とされる。祭祀の始まりは明らかでないが、古くから諏訪神社の末社であり、前宮とは関係が深い。
大祝の即位にあたって十三所の御社参りをする時の一社に入っていて、「諏訪上下宮祭祀再興次第」にも祭礼や瑞垣、鳥居の建立について細かく触れられており、市有形文化財に指定されている九頭井大夫古文書からも当社の古さをうかがい知ることができる。
わけても、上社の年中神事の最後を飾る御手幣送りの神事は、この神社の性格をよく表している。大晦日、前宮において一年中の神事に手向けた幣帛、並びに榊・柳の枝、柏の葉等を御宝殿より取り下げて葛井神社へ運び、寅の刻(午前四時ころ)に前宮御室の御燈を合図に葛井の池に投げ入れる。すると卯の刻(午前六時ころ)に遠州のさなぎの池に浮び出ると伝えられる。
また、葛井の池については、諏訪上社の七不思議にも数えられて伝説も多く、社叢もシロヤナギ、エゾエノキ、ケヤキなどの樹種に、枯れてはいるが樹齢推定六百五十年のケヤキの古株もあり、貴重な風趣を残している。
なお、葛井神社の代々の神主であった九頭井大夫家に伝存する武田信玄の寄進状および朱印状(市有形文化財)は、武田氏の諏訪統治を知るうえに貴重な文書である。
八幡神社
八幡神社は古くは八幡宮とよばれ、当社の由緒書によれば、既に鎌倉時代弘長年中(1261~1264)に前上社大祝諏訪盛重が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、八幡山極楽寺を別当として、神祭祈祷を盛んにし、さらに戦国時代永禄年中(1558~1570)鎌倉より光明寺を移し、極楽寺とともに別当とし、社地は数町歩に及び、上原城下町の中枢として、広く諏訪一円から崇敬された。慶長六年(1601)諏訪氏が上州から諏訪の旧領に復帰後高島藩主が江戸参勤往復の際、藩主は当社前で下乗、神前において道中の安全を祈願した。即ち、江戸行きの際には、藩主は当社まで騎馬、下乗祈願後、当社より旅仕度を整え、駕籠で出府、帰城の際も当社にて駕籠から騎馬にかえたといわれている。今日社前に残る参道と枡形の駕籠置石の配列は数百年の歴史を物語っている。
茅野駅前諏訪大社大鳥居


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