諏訪WALK | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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諏訪市の玄関口JR上諏訪駅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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諏訪市 | 目 次 |
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諏訪市の歴史は古く手長丘遺跡には旧石器時代から古墳時代にかけての生活の跡が見られ、地元神である手長神や足長神が信仰されていたとされます。その後勧請された諏訪大社の影響が大きかったのか、独自の文化圏をもち古代律令制の中でも短期間で吸収されましたが養老5年(721)に信濃国から諏方国として独立しています。中世になり諏訪大社の影響力が増すと対岸にある諏訪大社下社との権力争いが激化、戦国時代には上社側の諏訪氏が統一を果たしましたが武田家の諏訪侵攻により武田領となります。
高島城 日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。 城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。 本丸には三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことも、高島城の大きな特徴です。湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、寒冷地である諏訪では瓦は凍み割れてしまうからとか言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。
高吉が諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となりました。 高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。転封の翌年、天正19年(1591)にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工、慶長3年(1598)まで7年ほどかかって高島城を築城。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城です。その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は、慶長6年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇りました。 しかし明治4年(1871)、廃藩置県により封建制のシンボルである城郭の撤去が決定。明治8年(1875)には天守閣の撤去が終了。翌明治9年(1876)、本丸跡が高島公園として一般に開放されました。諏訪住民の高島城に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)、天守閣が復興されました。同時に、冠木門・角櫓なども復興されたほか、当時の石垣の一部も残るなど、今も往時を偲ぶことができます。
祭神は手摩乳神(てなずち)で、下桑原村の産土神、高島城の守護神として崇敬されてきた。拝殿は天明八年(1788)立川和四郎富棟によって建造された。桁行一間(3.82m)梁間一間(2.45m)、入母屋造向拝一間付、千鳥破風、唐破風をつけ、屋根は銅板葺である。擬宝珠高欄をつけた切目縁をまわし、脇障子をおく。向拝柱と母屋をつなぐ海老虹梁は、上り竜下り竜の彫物とし、木鼻に唐獅子のほか、蟇股、軒支輪などに多くの彫刻をつける。昭和二十九年(1954)六月十五日、不慮の火災により損傷したが、その後の修理により復元した。
神社山道の南にある精進湯は、このお湯で体を清めて手長様に詣でるという古くからの慣わしから名前がついている歴史ある共同温泉です。
祭神は足摩乳神(あしなずち)で、上桑原村の産土神として崇敬されてきた。本殿は、拝殿より一段高い場所にあって拝殿とは後補による渡廊によって結ばれている。この社殿の特徴は建築意匠にある。木鼻はいずれも拳鼻で、獏・唐獅子などの写実的なものになっていない。蟇股も板蟇股の中央に彫刻化する過程にみる絵様的彫り出しである。脇障子に至っては、竹に小鳥を配した線彫りに近いものである。以上建築様式からみて、江戸後期、彫刻意匠の風靡する前の時代の建造物で、社額裏面の延亨四年(1747)の墨書などからして、十八世紀の建造物と考えられる。 拝殿は天保十三年(1842)大隅流の大工矢崎専司らによって建造された。桁行一間(3.8m)、梁間二間(3.1m)、五棟造で三方に切目縁をまわし、擬宝珠高欄をつける。木鼻に唐獅子、欄間に竜・鷹・鶴、脇障子に麒麟・鳳凰、内部扉の両脇羽目に竜、その他各所に彫刻がついている。 舞屋(神楽殿)は、文久二年(1862)石田房吉らによって建造された。間口五、七間(10.3m)奥行三、五間(6.4m)、正面開口部上に大きな虹梁を渡し、その上に竜・獏などの彫刻を置き、木鼻は獅子の彫刻とする。 手長神社(女性の神様)と足長神社(男性の神様)は、ご夫婦の神様で対ですので、よろしければ両参りをおすすめします。
出雲系の八千矛神(やちほこかみ 別名:大国主命)や日本武尊命、八幡神社の大神である誉田別命を合祀。もとは高島村の氏神で、湖を支配する神として諏訪湖岸にあったが、高島城建城の際、村とともに小和田の現在地に移された。そのため現在も諏訪湖の御神渡の拝観神事を司り、貴重な資料である御渡帳を保管、記録している。「御神渡を検分する御神渡りの拝観」は八劔神社の特殊神事で、一之御渡・二之御渡・佐久之御渡を拝観して下座(くだりまし・上社側)と上座(のぼりまし・下社側) の湖岸地点の検分を行ないます。 御神渡りの記録は神渡帳と呼ばれる書物に記録されており、14世紀からほとんど欠けることなく 記録されているとのことです。過去の記録と照合し、その年の農作物の状況や世相を占い、諏訪大社上社へ注進奉告するものである。現存する気象記録の中でも、最も古いもののひとつである、と言われています。 拝殿は嘉永元年(1848)に上棟したもので、彫刻は立川専四郎冨種によるものである。
福島の鎮守様で、八剣社とも言われていた。かつて福島郷は御頭祭の親郷(255石)であり、この小さな村が枝郷を連れて御頭祭をつとめてきたのは、大祝の一族福島氏が地頭であったからでしょうか。 立川流二代立川和四郎富昌の建築で、嘉永2年(1849)8月3日に上棟した。一間社流造りで向背に軒唐破風をつけ、屋根は柿葺である。正面向拝柱の虹梁上の通玄仙人の持つ瓢箪から駒を出す彫刻、海老虹梁の上り竜、下り竜をはじめ、蟇股の粟穂に鶉、脇障子の鉄枴仙人・費張房仙人の彫刻、妻飾りの大瓶束の力神などすべての意匠を彫刻で埋めている。富昌の精密精緻な建築彫刻の特徴をよく表す代表的な建築です。
江音寺は千野氏菩提寺であり、千野氏の時代には有賀城城主の住まいであったと云われています。本堂は1845年、山門は1854年に建立されました。 また、境内にあるシダレヤナギは、諏訪市指定の天然記念物です。雌株で諏訪市内で最も大きく、推定樹齢は150年です。
諏訪湖周辺(諏訪市、岡谷市、茅野市、下諏訪町、富士見町)には40以上もの城跡がありますが、その多くは山城で、現在は荒れていて入るのが困難なところが多いようです。山城は、日常生活は麓の根小屋集落で行われ、城主の居館があり、戦時には登城して立てこもるが普段は城番や見張番が交代で守城するのみであった。建物は雨露を凌ぐための小屋程度のものであったと思われる。 諏訪湖周辺の城跡
桑原城址 桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。天文4年(1535)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れ市、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然とそていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。7月2日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけて桑原城へ退却、3日の夕方には、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げて行ってしまったため、20人ほどで夜を明かし、4日甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。
登り口から本丸跡までは、約20分の登りです。腰曲輪付近は、道がわかり辛いので気を付けて下さい。 有賀城址 築城年代は不明であるが、諏訪氏の支族である有賀氏が鎌倉時代初期の承久年間(1219~1222)に当地に入り、その後に築かれた山城であると考えられる。 戦国時代に入り、諏訪氏を滅ぼした武田氏の支配が当地域に及んだ天文17年(1548)に有賀氏ら西方衆は武田信玄と争うが敗退し、追放された。有賀城には武田方の原美濃守が入城し、しばらく後に武田方に協力した千野氏へと支配が移された。 そして関ヶ原の役後の慶長6年(1601)再興した諏訪氏の再入部にあたり、千野丹波守房清が入城している。 現在曲輪や尾根を遮断する堀切、斜面にのびる竪堀など、中世に築かれた防御的施設が非常に良好に残っている。標高925mの尾根頂部にある主郭は東西約20m、南北約37mの規模で、東側に虎口(出入口)が見られる。南側には高さが5mに達する土塁があり、このような大規模の土塁がある山城は諏訪地方では珍しい。 また、主郭から北方にのびる尾根上には土塁を持った曲輪が階段状に築かれている。これらの曲輪は戦時に城兵がこもる場所で主郭背後を執拗に遮断する堀切や山麓までのびる複数の長大な竪堀は曲輪や斜面を防御するためにつくったものである。 このように防御的施設が発達した有賀城址は、戦闘が激しくなった戦国時代末期に改修された姿であると考えられる。 権現沢(北真志野)城址 蓼宮社の裏山、現在中央道が横切り上方の平らを本城と呼び、城主については、諏訪氏系図によると金子民部の居城とされています。
中央道造成時の発掘調査で、中世住居跡、青磁片が出土している様です。 大熊城址 大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483)にその名がみられる。諏訪神社上社大祝側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。天文11年(1542)武田信玄の侵攻によって落城し、天文17年頃破却された。
昭和48年に行なわれた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。 武居城跡 武居城は諏訪大社上社本宮に隣接し片山の急崖、城ヶ峰西沢、女沢などの地形的要害に築かれ主郭と五段の帯曲輪が築城当時のまま残されています。 北側先端の段丘上に城主の居館や家臣の屋敷地があったと推定され「保科畠」の小名字があります。諏訪地域で築城年代の知られているものでは最古で、上社前宮の守りとして千沢城があり、本宮の守りとしての武居城であったことは地形的に明らかです。
一世紀半後の文明5年(1483)諏訪大祝継満は惣領家を倒して祭政二権を握ろうとしたが失敗して高遠に逃れ文明16年小笠原政貞、高遠継宗に助けられて再挙して諏訪に侵入廃城になっていた片山古城(武居城)を改修して本陣とし千沢城(安国寺)の諏訪勢と対時した事が当時の記録『守矢満実書留』に残っている。 天文年間(1532)に入ると諏訪頼重 家臣篠原与三郎が城代となりその後天文11年(1542)以降の武田信玄・勝頼の時代は諏訪大祝が預かるとある。 天正10年(1582)諏訪頼忠が諏訪を回復後は山城として使用されていないので、築城当時の状態をとどめていると思われます。。
高嶋城(茶臼山城)址 文明十五年(1483)の上社と下社の争いで下社金刺氏によって落された城として記録に登場します。武田氏は、諏訪を領有したのち上原城に置いていた統治の本拠地を天文十八年(1549)のこの高嶋城に移した。ふもとの岡村地区には代官所があったと伝えられている。
高嶋城址のある茶臼山には昭和二十七年(1952)に発見された旧石器時代の茶臼山遺跡があります。黒耀石製のナイフ形石器など多数の石器が出土し、群馬県岩宿遺跡の発見後、関東地方以外で初めて発見され、日本列島に広く旧石器時代の遺跡が分布する事がわかった重要な遺跡です。 また、刃の部分だけを磨いた蛇紋岩製の局部磨製石斧が出土し、縄文時代以前に石を磨く技術によって作られた石器があった事を示すものです。出土遺物は市有形文化財に指定されています。 金子城址 諏訪湖へ流れ込む宮川の流れの湾曲を利用して、三方を濠にし、一方に人口の水路を巡らせて作られた諏訪地方最初の平城である。
代わって諏訪に入った秀吉の武将日根野織部正高吉は、文禄元年(1592)高島城の築城にかかった際に、金子城を破却しその石材を舟で運び、石垣の一部にしたという。 このようにして城の遺構は何もないが、付近には桜畑(桜の馬場跡)、三の丸、城道(きみいち)などをはじめ多くの地名が残っておりその昔を偲ばせている。 上原城址 諏訪の平をを一望する戦国時代の山城で、義兄武田晴信(後の信玄)に諏訪頼重が撃たれるまでの約80年間、諏訪惣領家の本拠があった。現在も二之郭跡には巨大な物見岩が残る。諏訪氏滅亡後は諏訪郡代となった板垣信方が城を修復、武田氏が信濃平定の拠点とした。 頼岳寺の山門前より登城道があり、城跡まで車で行くことができる。途中に諏訪氏屋敷後を引き継いで板垣が住まった「板垣平」がある。天承10年、武田氏滅亡とともに廃城となった。規模は大きくないが、地形を活かして設計された堅固なな構えの城であった。
金洞山大安寺がありましたが、1565年5月豪雨により流失破壊されてしまった為に、一小庵を建て、瑞雲庵と称されました。 この庵は現在、江音寺山門右奥にあります。
この遺跡からは、縄文式、弥生式土器や原始時代の祝部土器等に混じって白磁や古銭の類も発見されました。その他、石器類、石棒等も発見され、これらの遺物により関東地方を中心として有史以前に盛んであった一つの文化の流れを知ることが出来ます。
大祝とは、諏訪明神の依り代として諏訪社の頂点に位置した役職で、上社大祝は古代から近世末に至るまで世襲され諏訪氏を名乗りました。中世までは諏訪の領主として政治権力を掌握、江戸時代に藩主諏訪家と大祝諏訪家ができ政教が分離され、明治維新を経て神官世襲制度が廃止されるに伴い大祝職も廃止されました。生き神を祀る信仰が存在し続けた神社は全国でも珍しいと言われています。
上社では、『五官』といって、神長官・祢宜太夫・権祝・擬祝・副祝が、それぞれ世襲で現人神である大祝を奉じて上社の祭祀を行っていました。
霧ケ峰高原は、主峰車山(1925m)を中心に標高1,500~1,900m、東西10km、南北15kmに広がる緩やかな地形で、大部分が草原です。霧ヶ峰火山群は約140万年前に噴火し、火口から山頂部分が吹き飛ばされ、現在の形になりました。
8月中旬頃までに約900種類の花が咲き、その中には霧ヶ峰固有の植物も約30種類ほどあります。 霧ヶ峰の高層湿原は、本州の最南限に当り、車山湿原、踊場湿原、八島ヶ原湿原は国の天然記念物に指定されています。 霧ヶ峰には『ジャコッパラ遺跡』、『池のくるみ遺跡』、『八島遺跡』など、約3万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が点在しています。
諏訪市湖南町にある後山地区は、標高1,000mの山間部にあり、20軒余りの農家が暮らしています。秋には、松茸専門食堂が開店するほどの松茸の産地です。
詳細については『湖南小学校百年のあゆみ』が諏訪市教育委員会で閲覧できます。 現在残っている校舎は、1948年に建てられたもです。 映画やPV撮影も行われたようですが、現在は立ち入り禁止になっています。
建築家として高名な藤森照信のユニークな作品です。南側から高過庵・低過庵・空飛ぶ泥舟があります。3つとも基本的には茶室です。
諏訪市北方山間部にある人造湖です。水田灌漑用の溜め池として作られ、森林体験学習館やフィールドアスレチックなどが併設されていて、市民の憩いの場となっています。 蓼の海から大見山展望台まで30分ほどで行け、諏訪湖が望めます。
立石公園までは、上諏訪駅から徒歩で約40分(殆ど上り坂)です。タクシーだと15分ぐらいで行けます。
冷涼乾燥性の気候と水に恵まれた諏訪地方では、古くから良質な酒米を使い醸造技術を培って名産の地酒を作り上げてきた。諏訪2丁目から元町にかけての国道20号沿いには、杉玉を掲げた5軒の造り酒屋が建ち並んでいる。「上諏訪街道呑みあるき」のイベントが有名です。
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