諏訪WALK
諏訪市の玄関口JR上諏訪駅

諏訪市 目 次

諏訪市の歴史は古く手長丘遺跡には旧石器時代から古墳時代にかけての生活の跡が見られ、地元神である手長神や足長神が信仰されていたとされます。その後勧請された諏訪大社の影響が大きかったのか、独自の文化圏をもち古代律令制の中でも短期間で吸収されましたが養老5年(721)に信濃国から諏方国として独立しています。中世になり諏訪大社の影響力が増すと対岸にある諏訪大社下社との権力争いが激化、戦国時代には上社側の諏訪氏が統一を果たしましたが武田家の諏訪侵攻により武田領となります。

 
文学の道公園
武田家の滅亡の際は諏訪大社上社本宮が織田家の軍勢に焼き討ちにあい、本陣となった法華寺では論功行賞が行われ織田信長が明智光秀を叱責し、面目を失った光秀が本能寺の変へと導いたとも伝えられています。豊臣政権下では秀吉家臣である日根野高吉が領し高島城を築城し、江戸時代には徳川方に組した諏訪氏が復権して高島藩を2万7千石(後3万2千石)で立藩、高島城の改修や城下町の整備など領土経営を行い現在の諏訪市の基礎が作り上げられました。又、城下には甲州道中の上諏訪宿が設けられ高遠藩、高島藩、飯田藩などの諸藩が参勤交代で利用し大いに栄えたそうです。



高島城

日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。
城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。
本丸には三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことも、高島城の大きな特徴です。湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、寒冷地である諏訪では瓦は凍み割れてしまうからとか言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

 
冬の高島城
天正18年(1590)、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の家臣日根野織部正
高吉が諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となりました。
高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。転封の翌年、天正19年(1591)にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工、慶長3年(1598)まで7年ほどかかって高島城を築城。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城です。その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は、慶長6年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇りました。
しかし明治4年(1871)、廃藩置県により封建制のシンボルである城郭の撤去が決定。明治8年(1875)には天守閣の撤去が終了。翌明治9年(1876)、本丸跡が高島公園として一般に開放されました。諏訪住民の高島城に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)、天守閣が復興されました。同時に、冠木門・角櫓なども復興されたほか、当時の石垣の一部も残るなど、今も往時を偲ぶことができます。

開館時間:9:00~17:30
休館日:11月第2木曜日、12月26日~12月31日
入館料:¥300(小人¥150)
住所:諏訪市高島1-20-1
☎:0266-53-1173


高島城城郭巡り

冠木橋
冠木橋は全長約20m、幅約4mの橋です。
中門川 三之丸温泉跡
三の丸温泉は、高島藩7代藩主 諏訪忠粛の意により、高島藩作事方筆頭大工棟梁 伊藤儀左衛門光禄が天明6年(1786年)、高島城天守石垣の修復大工事を成した年の11月、下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を木管で220間引湯してこの地に浴室と汲み湯場を設け、当初は藩主が使用し、次いで城内居住の藩士一同に便宜を図ったのが始まりであった。
衣之渡橋(三之丸跡)
衣之渡川と中門川(三之丸川)との間が三之丸で、道から東には周囲に堀をめぐらせた三之丸御殿があり、藩主が来て祭事をしたりくつろいだりした。八詠桜、常盈倉もこの一郭にあった。道から西には家老三之丸千野家の屋敷があって三之丸様と呼ばれ、その北のつづきには牛山、前田二氏の屋敷があった。明治維新直後、三之丸御殿は前藩主の居所となって東御殿と呼ばれ、家老の屋敷は藩知事の居所になって西御殿と呼ばれた。

衣之渡川 大手門跡
並木通り(縄手)が終わると橋が架けられていて、その正面に城の正門である大手門があった。門の外側と内側の道が今も鍵の手になっているところにその名残をみることができる。
並木通り
在はケヤキの並木だが築城当時はヤナギで、高島の城下町から高島城へ続く唯一の道(縄手)だった。現在もその道筋がそのまま残っている。
明治聖園
城下町から高島城への入り口にあたる場所を「柳口」といい、高島藩の民政の窓口である柳口役所が置かれていた。その中にはお白洲(裁判所)もあった。この辺り一帯は島崎に次いで上級藩士の屋敷が多く、近くの虫湯は藩主や藩士たちの温泉であった。明治になって高島学校が建てられ、明治天皇が行幸の際休息したことから、その記念として残したのがこの明治聖園である。

虫湯跡
上諏訪4湯の一つで、藩主や藩士が多く入浴したという。現在はなくなっているが、その一角に碑が建てられている。
精進湯
諏訪4湯の一つで、おもに庶民が入浴したという。現在も公衆浴場として利用されています。
上諏訪宿・問屋跡
高島城下町は甲州道中上諏訪宿でもあり、その中でも問屋は荷物の継ぎ立てとそのための人馬を手配する所で、宿の中心であった。問屋は初め本町にあったが、承応三年(1654)に中町に移り、貞享二年(1685)からは代々小平家が問屋を勤めた。本陣は置かれず、問屋がそれを兼ねていた。現在は駐車場となっている。宿場の出入口に設けられた曲の手の名残が今も残る。近代は商店街が栄え、現在も看板建築の懐かしい街並みを見ることができる。
お蔵跡
高島藩の御蔵のあった場所で、年貢米等を納めるための蔵が5棟建てられていた。東筋御蔵・西筋御蔵・下筋御蔵の三手御蔵や御貸方御蔵・下桑原村・小和田村御蔵などで、衣之川につながる長い御蔵溝を通し、倉庫のまわりにも溝をつくってそれぞれの御蔵へ直接に舟がつくようにした。貢租米は、川、湖、堀と舟で運ばれて三手御蔵に納められ、藩士に俸禄として支給されたり払い下げられたりした。

御蔵溝跡
御蔵へ年貢米等を運ぶために衣之渡川からつながっていた水路が現在も一部残っている。
南之丸跡
本丸の南東側に設けられた一郭を南之丸という。徳川家康の6男松平忠輝や、赤穂浪士襲撃事件で処罰された吉良義周など、幕府の罪人を受け入れてここに住まわせた。
志賀家住宅
本丸の南側は武士の屋敷地となっていた。そのうち幕末の安政年間に建てられた志賀家住宅が唯一の武家屋敷として残り、市有形文化財となっている。長屋門、母屋、土蔵が当時のまま揃って現存しています。
土戸門跡
冠木門の反対側に設けられていた門で、本丸の搦手にあたります。上薪はじめ、その他の納めものもここから運び込まれたし、商人や職人たちも出入りした。役所むきの用件でも冠木門お通りの資格を与えられていないものはここから出入りした。

諏訪護国神社
明治35年に諏訪招魂社として設立され、明治~昭和の戦没者を祀っています
高島公園
現在庭園になっている場所には本丸御殿の建物が立ち並んでいました。その一角にあった能舞台は現在市内の温泉寺の本堂として移築されています。
御川渡門跡
本丸の諏訪湖側に面した場所に設けられていた門で、城が湖に面していたころは、ここで湖の舟に乗ることができた。
この門は三之丸御殿の裏門である。三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。また、藩主がくつろぐところでもあった。
天守
明治8年に取り壊された天守は、昭和45年に復元され、内部は資料館と展望台になっています。南側に付属していた小天守の天守台も見ることができます。

高島城亀石
この亀石は、元々城内の庭園にあったが明治八年廃藩の時に城外に移され、以後所有が引き継がれ河西謙吉氏庭に安置されていた。平成十九年、百三十二年ぶりに高島城公園に戻った由緒ある石です。水をかけると、まるで亀が生きているようになり願いがかなうと言われています。
角櫓
本丸には3つの櫓が建てられていました。そのうちの一つが復興され、内部は茶室として利用されています。
冠木門
本丸の表門にあたり、現在は楼門が復興されています。両脇の石垣上に設けられた武者溜りが特徴的です。
高島城本丸の堀と石垣
高島城は、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原(沼沢地)に囲まれ、縄手だけが城下町に通じていた。
天守閣の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。衣之渡郭・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。石垣は、野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。


手長神社

祭神は手摩乳神(てなずち)で、下桑原村の産土神、高島城の守護神として崇敬されてきた。拝殿は天明八年(1788)立川和四郎富棟によって建造された。桁行一間(3.82m)梁間一間(2.45m)、入母屋造向拝一間付、千鳥破風、唐破風をつけ、屋根は銅板葺である。擬宝珠高欄をつけた切目縁をまわし、脇障子をおく。向拝柱と母屋をつなぐ海老虹梁は、上り竜下り竜の彫物とし、木鼻に唐獅子のほか、蟇股、軒支輪などに多くの彫刻をつける。昭和二十九年(1954)六月十五日、不慮の火災により損傷したが、その後の修理により復元した。

 
手長神社参道
手長神社旧本殿は弥栄神社といわれる。一間社流造屋根銅葺(もと杮葺)の社殿である。切石上に土台をおき、円柱を立て三方に切目縁をまわし脇障子を立てる。向拝柱は、几帳面取り角柱、頭貫の先の木鼻は象鼻、中備えは蟇股、母屋とは海老虹梁でつなぐ。母屋の軸部は円柱で、縁長押、内法長押をまわす。正面は方立幣軸付で、桟唐戸の扉とする。側面背面は横板張り、軒は二重繁垂木である。意匠は江戸時代後期、立川流大隅流が彫刻を重視する前の過渡期的時代のもので、虹梁の絵様や扁平な木鼻、蟇股の薄肉彫りの彫刻は写実的でなく、しがみ彫りなど江戸前期のものが残っている。棟札や関係文書から宝永六年(1709)伊藤庄左衛門によって建造された。
神社山道の南にある精進湯は、このお湯で体を清めて手長様に詣でるという古くからの慣わしから名前がついている歴史ある共同温泉です。

参道 手水舎 拝殿 回廊


足長神社

祭神は足摩乳神(あしなずち)で、上桑原村の産土神として崇敬されてきた。本殿は、拝殿より一段高い場所にあって拝殿とは後補による渡廊によって結ばれている。この社殿の特徴は建築意匠にある。木鼻はいずれも拳鼻で、獏・唐獅子などの写実的なものになっていない。蟇股も板蟇股の中央に彫刻化する過程にみる絵様的彫り出しである。脇障子に至っては、竹に小鳥を配した線彫りに近いものである。以上建築様式からみて、江戸後期、彫刻意匠の風靡する前の時代の建造物で、社額裏面の延亨四年(1747)の墨書などからして、十八世紀の建造物と考えられる。
拝殿は天保十三年(1842)大隅流の大工矢崎専司らによって建造された。桁行一間(3.8m)、梁間二間(3.1m)、五棟造で三方に切目縁をまわし、擬宝珠高欄をつける。木鼻に唐獅子、欄間に竜・鷹・鶴、脇障子に麒麟・鳳凰、内部扉の両脇羽目に竜、その他各所に彫刻がついている。
舞屋(神楽殿)は、文久二年(1862)石田房吉らによって建造された。間口五、七間(10.3m)奥行三、五間(6.4m)、正面開口部上に大きな虹梁を渡し、その上に竜・獏などの彫刻を置き、木鼻は獅子の彫刻とする。
手長神社(女性の神様)と足長神社(男性の神様)は、ご夫婦の神様で対ですので、よろしければ両参りをおすすめします。

参道 拝殿 舞屋 足長神社からの風景


八剱神社

出雲系の八千矛神(やちほこかみ 別名:大国主命)や日本武尊命、八幡神社の大神である誉田別命を合祀。もとは高島村の氏神で、湖を支配する神として諏訪湖岸にあったが、高島城建城の際、村とともに小和田の現在地に移された。そのため現在も諏訪湖の御神渡の拝観神事を司り、貴重な資料である御渡帳を保管、記録している。「御神渡を検分する御神渡りの拝観」は八劔神社の特殊神事で、一之御渡・二之御渡・佐久之御渡を拝観して下座(くだりまし・上社側)と上座(のぼりまし・下社側) の湖岸地点の検分を行ないます。
御神渡りの記録は神渡帳と呼ばれる書物に記録されており、14世紀からほとんど欠けることなく 記録されているとのことです。過去の記録と照合し、その年の農作物の状況や世相を占い、諏訪大社上社へ注進奉告するものである。現存する気象記録の中でも、最も古いもののひとつである、と言われています。
拝殿は嘉永元年(1848)に上棟したもので、彫刻は立川専四郎冨種によるものである。

参道 拝殿 舞屋 境内社


福島御頭御社宮司社

福島の鎮守様で、八剣社とも言われていた。かつて福島郷は御頭祭の親郷(255石)であり、この小さな村が枝郷を連れて御頭祭をつとめてきたのは、大祝の一族福島氏が地頭であったからでしょうか。
立川流二代立川和四郎富昌の建築で、嘉永2年(1849)8月3日に上棟した。一間社流造りで向背に軒唐破風をつけ、屋根は柿葺である。正面向拝柱の虹梁上の通玄仙人の持つ瓢箪から駒を出す彫刻、海老虹梁の上り竜、下り竜をはじめ、蟇股の粟穂に鶉、脇障子の鉄枴仙人・費張房仙人の彫刻、妻飾りの大瓶束の力神などすべての意匠を彫刻で埋めている。富昌の精密精緻な建築彫刻の特徴をよく表す代表的な建築です。

 
福島御頭御社宮司社 福島御頭御社宮司社



















江音寺

江音寺は千野氏菩提寺であり、千野氏の時代には有賀城城主の住まいであったと云われています。本堂は1845年、山門は1854年に建立されました。
また、境内にあるシダレヤナギは、諏訪市指定の天然記念物です。雌株で諏訪市内で最も大きく、推定樹齢は150年です。

 
江音寺 江音寺山門とシダレヤナギ


















社寺

温泉寺
高島藩初代藩主の諏訪頼水が没し諏訪家菩提寺の頼岳寺に葬られた後、頼水の志を継いだ二代目忠恒が下諏訪町慈雲寺の泰嶺和尚を招いて開山、以来高島藩主の菩提寺となりました。
明治3年、一部焼失したが、高島城から能舞台を本堂に、薬医門を山門に移築したものです。
頼岳寺
少林山頼岳寺は諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院で、諏訪惣領家の居城上原上司の山すそにある。永明寺破却後の寛永8年(1631)、高島藩初代藩主の諏訪頼水は群馬県聰林寺の大通関徹を招き、諏訪家の菩提所として開創。
御廟は、頼水の父頼忠を中心に、向かって右が頼忠婦人の理昌院、左が頼水と三室に分かれる。それ以降は二代藩主忠恒が上諏訪温泉時を新たな菩提寺とした。
地蔵寺
天正12(1584)年金子城鬼門鎮護寺として諏訪市中洲に建立。その後、藩主諏訪忠晴が開基となり、露山恵白を請して高島城の鬼門除けとし元禄2(1689)年、現在地に移転開山した曹洞宗禅刹。庭園の美しさが秀逸で、日本百名庭園のひとつに数えられています。
築庭「清水之滝」は江戸前期の代表作で、池泉蓬莱(=鑑賞兼廻遊)式、石は全て地元の山石を用い、植栽と見事に組み合わされている。
正願寺
桑原山不断院正願寺といい、つつじやあじさい、ふじなど四季折々の花が楽しめるところから「花のお寺」として知られています。
創建については不明だが、室町後期から安土桃山時代にかけて甲州や信州の寺々を創建・再興した岌往(ぎゅうおう)上人が永禄5年(1562)に再興したとされています。
両側にあじさいが植栽された参道を行くと山門があり、その先に本殿があり、本殿に向かって左側に曽良記念碑が建ち、そこから本殿裏手に廻ると曽良の墓があります。
墓を建立した河西周徳(1695~1753)は、曽良の養父となった徳左衛門の子で、曽良の甥にあたります。正願寺には、曽良と同郷の作家新田次郎らの墓があるほか、「おくのほそ道」の旅で曽良が使用したとされる「笈」や愛用の「文台」、「すずり箱」が保存されている。
教念寺
教念寺の創建は永正年間(1504~1524)、教譽淨念が開いたのが始まりと伝えられています。
寺宝も多く、国指定重要文化財に指定されている絹本著色羅漢像の他、諏訪市指定有形文化財に指定されている観経変相曼陀羅、金銅善光寺仏脇士仏、阿弥陀如来来迎図、紙本著色当麻曼陀羅図などがあります。
現在の本堂は天保期(1830年頃)に建てられたものです。
法華寺
平安時代建立の法華寺は、元々、天台宗の寺であったが、鎌倉時代に領主・蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改めたといい、諏訪大社上社の神宮寺に準ずる地位にあり、織田信長も武田氏征服の途次に滞在、多くの貴重な文化財があったが、平成11年に焼失、現在は新しい本堂が建てられています。
指月庵
指月庵は、かつて温泉寺(諏訪藩菩提寺)の隠寮として保存されていたものです。建物については、温泉寺第九世天眼智弁の書留「隠寮託録」の中に、寺領であったこの地に、寛政5年(1793)2月に隠居所を普請し、その年の6月棟上げされたと記されています。以来、諏訪藩主、菩提寺である温泉寺墓参りの折に、ここを休憩所として使用されたといわれています。
その後、明治34年までは温泉寺の所有でしたが、人手に渡り、のち大正6年に片倉家の所有となりました。庭園については、その中心となる石組が250〜300年前、江戸時代初期から中期に作られたものと推定され、当初は、温泉寺を借景として座敷より眺める座視観賞式庭園であったと思われます。庭園内には、「嘉永二年三月吉日」と刻まれた「解脱門」という石門があり、かつて藩主が温泉寺参道前からこの門をくぐり、隠寮へ入られたと伝えられる由緒ある石門です。現在の建物は当時の柱、梁等の一部をそのまま利用し江戸時代の建築様式を取り入れ、再建されたものです。
現在は一般公開されていません。
貞松院
迎冬山貞松院月仙寺は、文禄2年(1593)に無哲上人によって開山された浄土宗の寺で、知恩院の直末寺院である。開基は初代高島藩主諏訪頼水。
開山当初は寺号を慈雲院と称していたが、正保2年(1645)10月7日に頼水の正室の没後、2代藩主である子の忠恒が母の遺言を重んじ、母の廟所を慈雲院に建てることとし、さらに追善のために伽藍を修復し、寺領40石と広大な山林を寄進して母を中興開基に定めた。この時から忠恒の母・貞松院の戒名に因んで貞松院を寺号とするようになった。
天和3年(1683)7月3日、諏訪に配流されていた家康公の 6男・松平忠輝が92歳で没し、貞松院に葬られ、宝永3年(1706)には 5代将軍綱吉から永代供養料として、御朱印30石の寄進を受け、以後徳川将軍家の菩提寺の一院となり、藩主独札、触頭として栄える。
しかし、享和と弘化の 2度の火災によって山門と土蔵を除く全伽藍を焼失してしまい、明治維新後は時代の流れから寺勢が急激に衰退してしまった。昭和11年(1936年)、現在の本堂が再建され、現在に至っている。また、貞松院には忠輝の遺品が数多く残されている。
頼重院
天文11年(1542)7月、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原上に敗れ、甲府において自害した。
墓は東光寺(甲府市)にあるが、この地に菩提寺として頼重院が建立され、境内には宝塔をたてて中に宝篋印塔を納めその霊を供養した。
北斗神社
寿命の神様 祭主は袮宣太夫で天御中主命(北極星)を祀る。本殿は文政八年(1825)白鳥弥四郎が手掛けた。
阿弥陀寺
文禄4年(1595)上諏訪の郷人である河西浄西という念仏行者が岩窟に十一面観音を祀って念仏不断の道場とし、その4年後に尾張の弾誓上人が、諸国行脚の折ここを訪れ5年間滞在、開山上人となったものです。その後高名な念仏行者がここに住し、唐沢山の阿弥陀寺の名を近県に広げ、多くの念仏行者が来山するようになりました。
特に江戸末期の徳本上人や明治期の山崎弁栄上人は有名で、本堂内には、徳本上人自筆の「のちの世の人のかがみにのこしておく名無阿弥陀仏ちしきとぞみよ」という歌が額に入れられています。
本堂裏手の坂上には十一面観音を祀った岩野堂があり、ここは信濃国33番目の24番、伊那諏訪88ヶ所の21番札所になっていて、お堂には、「子宝授かり地蔵」も祀られています。


城跡

諏訪湖周辺(諏訪市、岡谷市、茅野市、下諏訪町、富士見町)には40以上もの城跡がありますが、その多くは山城で、現在は荒れていて入るのが困難なところが多いようです。山城は、日常生活は麓の根小屋集落で行われ、城主の居館があり、戦時には登城して立てこもるが普段は城番や見張番が交代で守城するのみであった。建物は雨露を凌ぐための小屋程度のものであったと思われる。

諏訪湖周辺の城跡
先達城 蔦木城 登矢ヶ峰城 槻ノ木城 シラザレ城 御天城 駒形城
粟沢城 下古田城 鬼場城 齢松山城 埴原田城 湯川枡形城 朝倉山城
上原城 千沢城 武居城 荒城 金子城 大熊城 真志野城
北真志野城 有賀城 桑原城 井森城 高嶋城 天神山城 大和城
高木城 霞城 桜城 山吹大城 山吹小城 上ノ城 下ノ城
岡谷城 花岡城 小坂城 高尾山城 峯畑城 高島城


桑原城址
桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。天文4年(1535)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れ市、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。

 
桑原城本丸跡
その関係が崩れたのは、惣領を継いだ諏訪頼重が天文10年(1541)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復か、翌天文11年(1542)、父信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然とそていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。7月2日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけて桑原城へ退却、3日の夕方には、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げて行ってしまったため、20人ほどで夜を明かし、4日甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。

桑原城跡登り口 腰曲輪 二の丸跡 二の丸跡からの風景
注意)足長神社の前の道を霧ケ峰方面に上って行くと、桑原城跡登り口があります。この先舗装のされていない林道を進むと駐車場がありますが、かなりの急坂です。登り口に車を置いて行く方が良いと思われます。
登り口から本丸跡までは、約20分の登りです。腰曲輪付近は、道がわかり辛いので気を付けて下さい。



有賀城址
築城年代は不明であるが、諏訪氏の支族である有賀氏が鎌倉時代初期の承久年間(1219~1222)に当地に入り、その後に築かれた山城であると考えられる。
戦国時代に入り、諏訪氏を滅ぼした武田氏の支配が当地域に及んだ天文17年(1548)に有賀氏ら西方衆は武田信玄と争うが敗退し、追放された。有賀城には武田方の原美濃守が入城し、しばらく後に武田方に協力した千野氏へと支配が移された。
そして関ヶ原の役後の慶長6年(1601)再興した諏訪氏の再入部にあたり、千野丹波守房清が入城している。
現在曲輪や尾根を遮断する堀切、斜面にのびる竪堀など、中世に築かれた防御的施設が非常に良好に残っている。標高925mの尾根頂部にある主郭は東西約20m、南北約37mの規模で、東側に虎口(出入口)が見られる。南側には高さが5mに達する土塁があり、このような大規模の土塁がある山城は諏訪地方では珍しい。
また、主郭から北方にのびる尾根上には土塁を持った曲輪が階段状に築かれている。これらの曲輪は戦時に城兵がこもる場所で主郭背後を執拗に遮断する堀切や山麓までのびる複数の長大な竪堀は曲輪や斜面を防御するためにつくったものである。
このように防御的施設が発達した有賀城址は、戦闘が激しくなった戦国時代末期に改修された姿であると考えられる。


権現沢(北真志野)城址
蓼宮社の裏山、現在中央道が横切り上方の平らを本城と呼び、城主については、諏訪氏系図によると金子民部の居城とされています。

 
権現沢城址
史蹟名勝天然記念物調査表には往古金子某居館の由、上社行事帳に金子内匠助とあり、伝承では胡桃沢氏が拠ったと云われており、はっきりしたことは解っていません。
中央道造成時の発掘調査で、中世住居跡、青磁片が出土している様です。












大熊城址
大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483)にその名がみられる。諏訪神社上社大祝側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。天文11年(1542)武田信玄の侵攻によって落城し、天文17年頃破却された。

 
大熊城主郭からの大堀切と四の郭
城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に6ヶ所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。主郭の南端には長さ20mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。
昭和48年に行なわれた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。








武居城跡
武居城は諏訪大社上社本宮に隣接し片山の急崖、城ヶ峰西沢、女沢などの地形的要害に築かれ主郭と五段の帯曲輪が築城当時のまま残されています。
北側先端の段丘上に城主の居館や家臣の屋敷地があったと推定され「保科畠」の小名字があります。諏訪地域で築城年代の知られているものでは最古で、上社前宮の守りとして千沢城があり、本宮の守りとしての武居城であったことは地形的に明らかです。

 
武居城跡への道
江戸時代の文政2年(1819)に書かれた「信濃国昔姿」によれば高遠口物見の出丸が天狗山、山伏塚に置かれたとあります。元徳2年(1330)諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の執権北条高時の婿となり信濃一円に勢力を拡大し、山裾の武居平に居を構え武居城を築城し、正慶2年(1333)北條氏滅亡の時、時重は高時と共に自害し、その後城主は不明となるとあります。
一世紀半後の文明5年(1483)諏訪大祝継満は惣領家を倒して祭政二権を握ろうとしたが失敗して高遠に逃れ文明16年小笠原政貞、高遠継宗に助けられて再挙して諏訪に侵入廃城になっていた片山古城(武居城)を改修して本陣とし千沢城(安国寺)の諏訪勢と対時した事が当時の記録『守矢満実書留』に残っている。
天文年間(1532)に入ると諏訪頼重 家臣篠原与三郎が城代となりその後天文11年(1542)以降の武田信玄・勝頼の時代は諏訪大祝が預かるとある。
天正10年(1582)諏訪頼忠が諏訪を回復後は山城として使用されていないので、築城当時の状態をとどめていると思われます。。


 
武居城跡森林公園 武居城跡からの風景


















高嶋城(茶臼山城)址
文明十五年(1483)の上社と下社の争いで下社金刺氏によって落された城として記録に登場します。武田氏は、諏訪を領有したのち上原城に置いていた統治の本拠地を天文十八年(1549)のこの高嶋城に移した。ふもとの岡村地区には代官所があったと伝えられている。

 
高嶋城址からの風景
天正十年(1582)に武田氏・織田氏が相次いで滅んだため、当時上社大祝だった諏訪頼忠が回復、金子城に移るまで在城した。

高嶋城址のある茶臼山には昭和二十七年(1952)に発見された旧石器時代の茶臼山遺跡があります。黒耀石製のナイフ形石器など多数の石器が出土し、群馬県岩宿遺跡の発見後、関東地方以外で初めて発見され、日本列島に広く旧石器時代の遺跡が分布する事がわかった重要な遺跡です。
また、刃の部分だけを磨いた蛇紋岩製の局部磨製石斧が出土し、縄文時代以前に石を磨く技術によって作られた石器があった事を示すものです。出土遺物は市有形文化財に指定されています。


金子城址
諏訪湖へ流れ込む宮川の流れの湾曲を利用して、三方を濠にし、一方に人口の水路を巡らせて作られた諏訪地方最初の平城である。

 
金子城址
この城は、諏訪神社(上社)に近く、諏訪の名族大熊城の千野氏の居館があったところと言われているが、天正十二年(1584)諏訪頼忠はここに城を築いて茶臼山の城から移ってきた。しかし、此処にいたのも僅かであり、数年して関東(武州奈良梨(埼玉県))へ移封された。
代わって諏訪に入った秀吉の武将日根野織部正高吉は、文禄元年(1592)高島城の築城にかかった際に、金子城を破却しその石材を舟で運び、石垣の一部にしたという。
このようにして城の遺構は何もないが、付近には桜畑(桜の馬場跡)、三の丸、城道(きみいち)などをはじめ多くの地名が残っておりその昔を偲ばせている。


上原城址
諏訪の平をを一望する戦国時代の山城で、義兄武田晴信(後の信玄)に諏訪頼重が撃たれるまでの約80年間、諏訪惣領家の本拠があった。現在も二之郭跡には巨大な物見岩が残る。諏訪氏滅亡後は諏訪郡代となった板垣信方が城を修復、武田氏が信濃平定の拠点とした。
頼岳寺の山門前より登城道があり、城跡まで車で行くことができる。途中に諏訪氏屋敷後を引き継いで板垣が住まった「板垣平」がある。天承10年、武田氏滅亡とともに廃城となった。規模は大きくないが、地形を活かして設計された堅固なな構えの城であった。


大安寺遺跡

金洞山大安寺がありましたが、1565年5月豪雨により流失破壊されてしまった為に、一小庵を建て、瑞雲庵と称されました。
この庵は現在、江音寺山門右奥にあります。

大安寺遺跡
1602年枕室宗華禅師と千野頼房により江音寺を開き、大安寺は再建されず廃寺となりました。
この遺跡からは、縄文式、弥生式土器や原始時代の祝部土器等に混じって白磁や古銭の類も発見されました。その他、石器類、石棒等も発見され、これらの遺物により関東地方を中心として有史以前に盛んであった一つの文化の流れを知ることが出来ます。









霧ヶ峰

霧ケ峰高原は、主峰車山(1925m)を中心に標高1,500~1,900m、東西10km、南北15kmに広がる緩やかな地形で、大部分が草原です。霧ヶ峰火山群は約140万年前に噴火し、火口から山頂部分が吹き飛ばされ、現在の形になりました。

霧ヶ峰踊場湿原と蓼科山
5月になると霧ヶ峰にも春が訪れます。6月中旬に蓮華躑躅が草原を染めると、7月中旬にはニッコウキスゲが咲き始めます。
8月中旬頃までに約900種類の花が咲き、その中には霧ヶ峰固有の植物も約30種類ほどあります。
霧ヶ峰の高層湿原は、本州の最南限に当り、車山湿原、踊場湿原、八島ヶ原湿原は国の天然記念物に指定されています。
霧ヶ峰には『ジャコッパラ遺跡』、『池のくるみ遺跡』、『八島遺跡』など、約3万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が点在しています。




湖南小学校後山分校

諏訪市湖南町にある後山地区は、標高1,000mの山間部にあり、20軒余りの農家が暮らしています。秋には、松茸専門食堂が開店するほどの松茸の産地です。

 
湖南小学校後山分校
湖南小学校後山分校の歴史は古く、1803年に諏訪藩主により『長善館』として設立しています。改築や改称を繰り返しながら1968年に廃校を迎えるまで、沢山の人が巣立っていきました。
詳細については『湖南小学校百年のあゆみ』が諏訪市教育委員会で閲覧できます。
現在残っている校舎は、1948年に建てられたもです。
映画やPV撮影も行われたようですが、現在は立ち入り禁止になっています。







蓼の海公園

諏訪市北方山間部にある人造湖です。水田灌漑用の溜め池として作られ、森林体験学習館やフィールドアスレチックなどが併設されていて、市民の憩いの場となっています。
蓼の海から大見山展望台まで30分ほどで行け、諏訪湖が望めます。

 
蓼の海 大見山展望台からの諏訪湖


















諏訪市の近代建築

片倉館
国重要文化財
欧米視察中にヨーロッパの温泉施設に強い感銘を受けた2代目片倉兼太郎が、帰国後、公共の福利厚生を目的に建設した温泉施設。
昭和3年(1928)に竣工した建物は、独創的な意匠とともに建物内外の装飾が多く、日本の浴場としては稀な洋館。
設計者は、台北州庁(監察院)、台南州庁(国立台湾文学館)、など名建築を手がけた森山松之助。
諏訪市美術館(旧懐古館)
国登録有形文化財
諏訪の歴史や蚕糸に関わる資料などを展示する「懐古館」として旧片倉製糸が建設した教育施設。昭和18年(1943)に完成した建物は、内外ともコンクリート造り風の大壁で、全体的な意匠は和風。
諏訪市に寄贈された後、昭和31年(1956)長野県初の公立美術館として発足。
三村貴金属店店舗・ブライダル染花みむら店舗
国登録有形文化財
国道20号沿いに位置し、昭和初期の華やかな街並み景観を伝える店舗建築。正面中央部のアーチ、柱形上部に付けられた持送り、アーチ中央の「MIMURA」の文字デザインなど西洋建築を模倣した独創的な細部意匠を施した看板建築。
三村貴金属店に隣接し、街並みを特徴付ける個性的な外観を持つ店舗建築。正面の壁面には、細部まで幾何学意匠が用いられ、当時流行った洗い出しの仕上げ。
丸高蔵
国登録有形文化財
本棟造独特の外観を持った店舗、醸造蔵として使用されている吉沢蔵、鰍沢蔵は、高島城旧三の丸跡である現在地に木曽藪原、山梨吉沢・鰍沢よりそれぞれ移転されたもので、歴史的景観を残す通りの中心的な要素。


風景

並木通り かりん並木 上川の桜と水仙 阿弥陀寺の紅葉

衣之渡川 丸高蔵 ザゼンソウ
(ザゼンソウの里公園)
大熊城址からの八ヶ岳

高島城の夕暮れ 高島城アイスキャンドル 諏訪湖イルミネーション 八釼神社御柱祭里曳き

手長神社御柱祭里曳き クリーンレイク諏訪 西山公園 高島城


諏訪市の美術館・博物物館

諏訪市美術館
1950(昭和25)年、懐古館は諏訪市に寄贈され、1956(昭和31)年「諏訪市美術館」として開館しました。県内では最も古く、また国内でも5番目に古い公立美術館と言われています。このたび、和風の意匠でまとめた美術館と、洋風意匠の片倉館(国重要文化財)が相まって諏訪湖畔独特の景観に貢献している、と評価がされ近年国の登録有形文化財に登録されました。
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日、祝日の翌日、年末年始、展示替え期間
入館料:¥300(小中学生¥150)
住所:諏訪市湖岸通り4-1-14
☎:0266-52-1217
原田泰治美術館
諏訪市出身の画家・原田泰治氏の作品を展示。日本のふるさとをテーマに全国を取材し、つつましく生きる人々の暮らしを限りない愛情を込めて描き上げた「原田泰治の世界」が楽しめます。常設展では朝日新聞日曜版に連載された作品や、100号の大作などを紹介。諏訪湖を見渡せるティールームもあります。
開館時間:9:00~17:00
休館日:11月~4月の月曜日、12月26日~1月1日
入館料:¥800(小学生¥200、中高生¥400)
住所:諏訪市渋崎1792-375
☎:0266-54-1881
北澤美術館
アール・ヌーヴォーからアール・デコにかけての優美なガラス工芸品と、現代日本画を展示。1階展示室は天才ガラス作家エミール・ガレの作品を中心にフランス装飾芸術のコレクションが常時50点前後並びます。2階には東山魁夷など現代を代表する日本画の巨匠たちの秀作が揃っています。
開館時間:9:00~18:00(10月~3月 9:00~17:00)
休館日:無休(展示替え等により休館日となる場合、または展示室の一部がご覧いただけない場合がございます。
入館料:¥1,000(中学生¥500 小学生以下は無料)
住所:諏訪市湖岸通り1-13-28
☎:0266-58-6000
SUWAガラスの里美術館
精選された名品の中から、そのつどテーマ性を持たせた作品をえらんで企画展を開催いたします。 トンボ玉制作などが楽しめる工房や日本最大級を誇るガラスショップ、諏訪湖を一望できるレストランも併設されています。
開館時間:9:00~18:00(10月~3月 9:00~17:00)
休館日:無休(展示替え等により休館日となる場合、または展示室の一部がご覧いただけない場合がございます。)
入館料:¥800(中学生以下は無料)
住所:諏訪市豊田2400-7
☎:0266-57-2000
サンリツ服部美術館
日本・東洋の古代から近代までの絵画・書蹟・工芸に、西洋近現代絵画を加えた600点余りの作品を収蔵。国宝の本阿弥光悦作「白楽茶碗 銘 不二山」(年1回出品。時期は要問合わせ)等の茶道具を中心に、重要文化財、重要美術品が充実。年数回の企画展で順次公開。西洋絵画は、ルノワール、シャガールなどの作品を所蔵。
開館時間:9:30~16:30
休館日:月曜日(祝日開館)、年末年始、展示替え期間
入館料:¥800(小中学生¥400)
住所:諏訪市湖岸通り2-1-1
☎:0266-57-3311
諏訪市博物館
御柱祭や、冬の諏訪湖の氷の山脈“御神渡り”など諏訪信仰の歴史や特徴を紹介。原始時代からの長野県宝を含む貴重な文化財多数と、映像や伝説アニメ、世界の蝶、企画展をご覧いただけます。体験講座や足湯も楽しむことができます。
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌火曜日)、祝休日の翌日、年末年始
入館料:¥300(小中学生¥150)
住所:諏訪市中洲171-2
☎:0266-52-7080
伊東近代美術館
伊東近代美術館は、伊東酒造の創業者伊東充の収集した約330点の日本画と彫刻を展示する美術館。昭和47年、郷里諏訪湖の畔に開館。昭和61年に富士見高原に移転。平成20年に諏訪市に移転、伊東酒造の自社蔵の隣にあった大正時代の古民家やみそ蔵、店舗を改修して美術館にした。低い天井や急な階段など昔の造りをそのまま生かし、和の香りが漂う。
開館時間:10:00~16:00
休館日:火曜日(火曜日が祝日の場合は翌水曜日)
入館料:¥800
住所:諏訪市諏訪2-4-5
☎:0266-52-0164


諏訪五蔵

冷涼乾燥性の気候と水に恵まれた諏訪地方では、古くから良質な酒米を使い醸造技術を培って名産の地酒を作り上げてきた。諏訪2丁目から元町にかけての国道20号沿いには、杉玉を掲げた5軒の造り酒屋が建ち並んでいる。「上諏訪街道呑みあるき」のイベントが有名です。

舞姫酒造株式会社
明治27年、信州諏訪にて土橋四郎(初代蔵主のち隠居名「亀仙」)が、味噌・醤油醸造元「亀源」より分家し、「亀泉酒造店」を創業致しました。
銘柄の「舞姫」は、当初の「亀泉」を大正天皇のご即位の大典を記念して改名。優雅さと気品、そして華やかさの中にも歴史の重みを漂わす酒でありたいとの願いを込めております。
酒造りは、伝統手法をあくまで遵守。全国的にも名高い諏訪の杜氏を中心に、蔵人ひとりひとりが、手間を惜しまず、労を厭わず、一滴一滴に愛情を込めて醸しております。もちろん、水は美しい大自然が息づく霧ヶ峰高原を源とする清冽なる伏流水。大吟醸酒・吟醸酒・純米酒の米は全て山田錦、美山錦をはじめとする酒造好適米。造りに、原料に、杜氏の頑固なまでのこだわりが生きています。
甘口でもなければ辛口でもない、甘・酸・渋・辛・苦の五味が程良く調和した、旨口の日本酒造りに日夜励んでおります。
諏訪市諏訪2-9-25
☎ 0266-52-0078
麗人酒造株式会社
諏訪の地に麗人が創業しましたのは、今を遡ること二百余年、寛政元年(西暦1789年)のことです。寛政元年(1789)といえば、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、アメリカ合衆国では憲法が制定されジョージ・ワシントンが初代大統領に就任しました。
麗人は、アメリカ合衆国とほぼ同じ長さの歴史を持つということになります。麗人酒造株式会社の蔵の建物の一角には、創業当時の大黒柱が今でも残っています。この大黒柱には、酒造りの神様として知られる京都の松尾大社の銘が入っています。これにより、この大黒柱は、麗人が二百余年続く造り酒屋である事実を証明する、歴史的な物証ともなっています。
諏訪市諏訪2-9-21
☎ 0266-52-3121
酒ぬのや本金酒造株式会社
宝暦6年、創業者である宮坂伊三郎が酒株を譲り受け酒造業をはじめたのがはじまりです。屋号は志茂布屋(しもぬのや)。当時、上諏訪町(今の諏訪2丁目のあたり)には13軒の造り酒屋があり、その内の1軒でした。ご先祖は諏訪の町の文化、商売の発展にも尽力をしていたようで諏訪湖に川えび、しじみを放流したり諏訪旧蹟誌という書物をまとめたり、神社の神主をやるなど酒造業以外の活動も多かったようです。
明治、大正、昭和と激動の中、屋号も志茂布屋から現在の酒布屋に改めます。そして、戦争の混乱の中で酒造蔵は国の政策で縮小され、廃業を迫られる蔵もでてきます。しかし本金は保有工場となり廃業の難を免れます。
ちょうどその頃、現在の本金の酒造りの流れが形成されます。
諏訪市諏訪2-8-21
☎ 0266-58-0161
伊東酒造株式会社
昭和33年創立で、諏訪ならではのお水・お米・温泉・自然の恵みに支えられ、酒本来の香りののった味が引き出され、人の手で造れる量だけをお届けしています。
諏訪市諏訪2-3-6
☎ 0266-52-0108
宮坂酒造株式会社
寛文2年(1662)、宮坂家のご先祖様は諏訪を治める諏訪氏の家臣でしたが、戦国時代、諏訪氏・武田氏・織田氏の戦乱に翻弄された末、刀を捨てて酒屋となりました。諏訪で半生を過ごした松平忠輝公(徳川家康の六男)が座右に置いた、赤穂浪士の大高源吾が喉越しを絶賛したなどが江戸時代の逸話としては伝わっており、拝領の盃や遺愛の印籠なども残されています。「真澄」は江戸後期から使い始めたブランド名。名前の由来となった「真澄の鏡」は、諏訪大社上社の宝物殿に展示されています。是非一度ご覧ください。
諏訪市元町1-16
☎ 0266-52-6161


諏訪市の湧水

石清水 明治天皇御膳水 殿様御膳水 手洗水
細久保湧水 延命水 長命の水


諏訪市マップ


Home

諏訪湖

上諏訪温泉

下諏訪温泉

岡谷温泉

諏訪大社

中山道

甲州道中

諏訪市の観光

下諏訪町の観光

岡谷市の観光

道祖神巡り

霧ヶ峰







湯遊.net





copyright©2013 湯遊.net all rights reserved.